Improvised Music from Japan / Information in Japanese / Aki Onda / writings

Edited Memory 恩田晃 X ダイサク・ジョビン

テキスト:ダイサク・ジョビン

えーと、これは私が書いたんじゃなくて、ブラジル生まれの草履履いたやたらでかい不精ひげずらの某雑誌の編集長が書いてまとめたんですど…、まあいいか…(恩田晃)


恩田晃は私の友人だ。彼と話をするのはいつもとても楽しい。音楽家、写真家、文筆家であり、現在はNYに在住するボヘミアン。彼はときどきフラッと私の前に現れ、ニコニコと笑いながら(同時にいつものようにその目を鋭く輝かせながら)、私たちは何時間も会話を交し続ける……それはお互いのエネルギーを交換しているように感じられる。コミュニケーションするということ……大阪にはじまり、東京、ロンドン、パリ、ニューヨーク……彼はいつでも放浪しているように思う。そして、それぞれの都市で彼は気の合う仲間を見つけ、そのコミュニティである一定の時間を過ごす。私は東京という都市の……おそらく彼の仲間だと思っている。「ワールドワイドな視野」という狭義の意味ではなく、個人と個人として、私たちは世界について、そして日本という国家システムの曖昧で集団主義的な文化への批判という話題に多くの時間を費やす。彼の発するひとつひとつのはっきりとした言葉や明確な考え方にいつもわたしは覚醒させられる。彼は、音「記憶」をエディットする音楽家だ。私は、ここで彼の言葉「記憶」をエディットしてみる。


10代の頃は写真をやってて、高校にあんまり行ってなかったから、夜の街を徘徊して写真を撮ってた。で、ミュージシャンの写真を撮ることがなんとなく多かったんで、彼らと時間を一緒に過ごすことによって「なんだこいつら、変な奴らだな」と思ったわけですよ。そうやって音楽に興味を持ちはじめたんじゃないかな。でも、それから少しの間ロンドンへ行って、それに金沢にも居たかな。で、いったん大阪に戻ってきて、その時に音楽始めたんじゃないかな。音楽家になったなと自分で思ったのは20代後半。始めて5年くらいは一体何をやっているのか自分でもよく分かっていなかったし、音楽はあくまで選択肢の一つでしかなかった。あ、こういうこともできるんだ、っていう。でも、今はもう骨の髄まで音楽家かもしんない。発想がかなり音楽家っぽくなってしまったんじゃないかな。だから写真を撮ろうが文章を書こうが、ベースの部分は音楽だと思う。自分自身の物の見方だとか、考え方が確立していくに従って、より音楽的なものを好むようになってきた。いいのよ、音楽的な景色でも、音楽的な女でも、音楽的な時間の流れでも。そういうものが好きなんだな、と思うようになってきた。あとは海外に住むようになったせいもあるかもしれないけど、自分がなにものであるのかはっきりさせないといけない。表面的な意味での音楽家像みたいなもの、例えばCDを出しています、音楽活動をしていますとか、そういうものから音楽が生まれてくるわけではなくて、そのひとの生活のなかから出てくるわけじゃない? そのひとの奥深くから出てくるもんじゃない? だったら生活そのものをリッチにすることから、いい音楽が生まれてくると思うのね。音楽と生活ってお互いにくっつき合ってるもんだから、どちらか一方がダメになってしまえば両方がダメになってしまう。つまんない奴がいい音楽つくるってありえない訳じゃない? で、私はいい音楽つくりたい、だったらそのためにいい生活する必要がある。もちろんそれをキープするにはものすごいシビアであるわけで、金銭的にどうやって食っていくかって問題もあるし、私の場合は音楽制作のシステムとか音楽のスタイルみたいな出来上がった方程式を最初から無視してやっているわけだから、まあインディペンデントっていうことなんだけど、より自分の音楽が何かということを突き詰めて考えて、きちんと人に知らしめなきゃいけない。

10代の頃は、学校に行っても一言も喋らない子だったのね。ませていたし、文化的に豊かな環境で育っていたし、それで田舎の中学高校に行ってたから、まわりと付き合うのが馬鹿ばかしいわけ、で、教室で一人でずっと本読んでた。すごくアナーキーな家庭環境で育ったから日本の社会のしきたりとか全然守らなかった。学校行っても嫌なことは嫌って言うだけで、そっぽ向いちゃう。だからもう困りものね(笑)。ずっと無口な状態を続けてたから、いわゆる学校教育をドロップアウトした後は精神的にリハビリが必要だったんだけれども、自分の付き合う人は学校にいなかったし、夜の街を徘徊して大人と付き合ってた。で、自分なりにそういうコミュニティをつくっていったわけ。もしかしたらいまでもそういうことをずっと続けているのかもしれないね。自分なりのコミュニティをいろんな所にいって、自分自身でつくっていく。だって、私の場合頼るものはなにもないから。日本人としてのアイデンティティもないし、今なんかお金もないし、家庭もなければ住所不定だし(笑)。頼るものはやっぱりそういうコミュニティしか私にはないよね。友人たちって言い換えてもいいんだけど。

振り返ってみても、どうしてこれだけ旅をしてきたのか、自分でも不可解なのね(笑)。何かに突き動かされるようにして街から街へ移動してきたんだけども、行かなきゃいけないと思っちゃうわけよ。まあ、東京にいたときは東京があまり好きじゃなかったから、一定期間いるとストレスがたまってきて、そうすると無意識のうちに航空会社に電話してチケットを買ってしまうとか(笑)。必要だと思う瞬間に動く。そっから金銭的な面だとかスケジュールだとか現実的な面を考える。まずは思い込みで始めちゃうわけね。だから後からお金をかき集めたり、辻褄あわせで死にそうになることがある。もう、人を騙してでもやるしかないし。いつもレコーディングでも写真でも気が付いたら始めてしまっている。後から考えたら、なんであんなことできたんだろ? と思うけど、その瞬間は思い込んでるから。だから人に向かって堂々と「金くれ」って言えたりする(笑)。

私がやってることって、何か「記憶」に関係してることに最近気付いてきたのね。例えばカセットレコーダーでかれこれ10年近くいろんな音を録りためてて、それがアルバムをつくる時はいつもベースになるし。最初はなんのためにやってるかなんて分かってなかった。なんとなく無意識にしてたのね。で、5〜6年してみて、毎日毎日カセットレコーダー持って歩いててもつまらないから、ちょっとメディアを替えてみようかと。で、同じような感じで写真をまた撮り始めた。で、そういう記憶の堆積で、私は何か表現しているんだけれども。

人間の記憶のシステムっていうのは、思考のシステムとは違うのね。例えばこの東京という街を歩いていて、昔見た風景だなって思って、その既視感みたいなものが実は10 年前にロンドンで見た風景であったりとか、そういう時間軸とは関係のないランダムな憶え方をしたりする。で、それを論理化するのが思考のシステム、何月何日何をしました、次ぎの日は何をしましたとか。

東京って、戦後いろいろなことがあったにも関わらず、その時ごとの文化っていうのを消し去りながら進んできた街。時代の記憶というのを絶えず更新し続けてる記憶喪失、健忘症の街。私は「焼き畑農業文化の都市」って言ってるんだけど(笑)。焼くと一時的に土壌が生き返るんだけど長くは続かない。ニューヨークという街は昔からの記憶がいたるところに放置されたまま堆積しているから、いろんな時代に自由にアクセスできる。私みたいに記憶に取り憑かれた人間にとってはそこに居ながらいろいろなところに旅ができる不思議な街なのね。

現場にいたい。わたしは理屈云々っていうよりはあくまで実践家でありたいし、その場にいて、その場を楽しみたい。それをドキュメントのように記録していく、それが私のアートでもあるし。私の作品なんて、音楽であろうと写真であろうと言葉であろうと、全てその場のドキュメント。その場にわたしがいたという記録。日記みたいなもん。何かを作ろうなんて嘘臭い(笑)。全ては与え合うエネルギーのフィードバックであると。頭で考えるだけでアートができるんだったらやってみろよ、と言いたい。人間が無菌室に入れられて、まったく社会から隔離された状態で純粋培養されたとして、その人がアーティストになるかというと、可能性はゼロだと思う。

私は、他人のイマジネーションのきっかけになるものを作りたいのね。何故かというとコミュニケーションしたいから。他人の何かをイマジネーションすることによってできたものを自分のイマジネーションで会話するということが、私の何かを作ることの基本になっている。

『Book Worm』(2003年)掲載


Last updated: August 14, 2004