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転生する音楽

デイヴィッド・シルヴィアン『ブレミッシュ』

恩田晃

もう眠る時間はとうに過ぎているのですが、デイヴィッド・シルヴィアンの傑作『ブレミッシュ』について記しておきます。でも、そのまえにとんでもない回り道をしますね。

この間、友人のアラン・リクトが某誌に書いたバーント・シュガーのグレッグ・テイトのインタヴューを読んでいて、呼ぶものがあって、そのあたりの音を聴きこんで、<転生>ということばが浮かんできました。グレッグ・テイトは、本職は音楽ライター。ソウルからジャズからヒップホップまで、ブラック・ミュージックのミクロ・コスモスについて、回顧的にではなく、現在からの視座を持って書ける稀な存在で、彼の率いるメンバー不特定多数の即興ビック・アンサンブル=バーント・シュガーは、彼がブッチ・モリスの「コンダクション」の理論、戦術を応用して、マイルス・デイビスとジョン・ゾーンとブッチ・モリスを足したような音楽をやってます。ようはブッチがジャズの方法論をコンテンポラリーに料理するなら、グレッグはジャズもソウルもヒップ・ホップも含めてやってしまえというわけです。頭がいいというか、ずるいというか、調子がいいというか。それだけでなく、かつての黒人音楽にあふれていたスピリチュアリティー=霊性に深く興味を抱いているようで(彼はジミ・ヘンドリックスの本も書いている)、それを呼び覚ますだけでなく、どうやって今の時代の音楽にフィットさせようか、と考えている。あまりうまくいっているとは思わないけど、ステージ上でいかれた祭祀のように、サン・ラ張りに派手な格好をして、とりあえず努力してみている。だいたい、今、黒人音楽全般において死んでるじゃないですか。ヒップホップも牙を抜かれてしまったし。かつてのブラックネスが猛々しいパワーだった時代は終ってしまったかのようです。とにかく、インタビューのなかで、数日間に渡る演奏を繰りひろげるトランス=リチュアル的なアフリカ音楽の演奏形態が(そのなれの果てがフェラ・クティやサニー・アデ)、アメリカのスピリチュアルやブルースを経て、60年代にはシングルのレコード盤にもおさまるようなポップでコマーシャルな形態に移し変えられ、語り口もサウンドもソフトにメローに洗練されていった状況で、なんでも取り込んで黒人音楽の不純化を試みたファンカデリック、パーラメントあたりだけが、元来の黒人音楽の霊性の強さをあらわにしていたという話や、ヒップ・ホップ黎明期の得体の知れないパワーがヒップ・ホップについてはなにも知らないクリスチャン・マークレーに受け継がれていったいう話や、シカゴのAACMやセントルイスのBAGの体現していた黒人の都市感覚と生活観をベースにした音楽コミュニティーの在り方がジャズの世界では廃れてしまい、それを違った形態で編み直し、ニューヨークのダウンタウンで実現したのがジョン・ゾーンだったという話や、音楽の核心的な部分をもとにした革新的な動きは、物理的にも精神的にもその時々の潮流とはへだたった場所から生まれてくるのではないか、と主張している。それを、わたしは<音楽の転生>といってみてもいいか、と。そんなことを考えながら、昨夜は酔っ払ってダウンタウン・ミュージック・ギャラリーでブラック・ダイスやら、セシル・テイラーやらのCDを買って、その後に、フィル・ニブロックのエクスペリメンタル・インターメディアへトーマス・レーンとマーカス・シュミクラーのデュオを観にいったんです。演奏テクニックは見事で、音楽的にも緻密に構築されていて、かなり感心しんだけど、音に附随するイメージはゼロで、音楽を聴いているというよりはスポーツの試合を見ているようでした。それに、ニューヨークという雑多な文化が混淆する都市のなかで、こういう純度の高い音楽を聴くと、もの凄く違和感があり、それはそれで面白かった。アメリカとヨーロッパは文化は根本的に違うんだな、と当たりまえのことを強く認識しました。

で、いきなりデイヴィッド・シルヴィアンに戻ります。彼はアメリカに移り住んで、これまで美学的な範疇に傾倒しがちだった自分の音楽のベースをある種の危険にさらして、アメリカ的な混淆する音楽のダイナミズムを身に付けたと思うんです。加えて、もともと持っていた東洋的なアミニスティクなセンスに磨きがかかった、というかその部分でしか自分は勝負できないんだということに気付いたのでしょう。ヨーロッパの美学が通用しないニュー・ハンプシャーのようなところで暮し(以前は、全米で五つ保守的な州を挙げるとすると、そこに入っていた。最近少し変ったみたいだけれど)、精神的なクライシスのなかで、なにが有効かを摸索するうちにポンと突き抜けてしまった。あと、シャーマニックなセンスは、彼の結婚した女性から学んだはず。で、『ブレミッシュ』はその女性との魂の交わりを通して観た世界/世界観を描いている。もしくは、魂の断絶も含めて(なんらかの関係の亀裂があったと思う)。こういうタイプの男性はすべて伴侶となる女性から学ぶんだけど、実は意識しないだけで、すべては男性のなかに存在していて、ある特定の女性が呼び水になってそれが外に現れてくる。わたしもいつもそういう関係をだれかと持ってるからよくわかる。こういうことを書いてるもの、今のガールフレンドのひとりにインスパイアされている部分も多くて、彼女は、ブッチ・モリスと親しいし、マイルス・デイヴィスなど、昔のジャズ・ミュージシャンの付き合いも多かった、彼女の視点から音楽のある側面が見えてくることが多い。なんだか、変な話になってきましたね。まあいいか。音楽の成り立ちは複雑ですからね。とにかく、『ブレミッシュ』を聴いて、ソウルっぽいなと思いませんでしたか? 声のテクスチャーとバランスの大きさが60年代のソウルのスタイルができ上がる直前のゴスペルに近い。それに、ドニー・ハザウェイやマービン・ゲイ(『What's Going On』より『Here My Dear』かな)の持っていた語り口に近い。このアルバム最後の名曲『Fire in the Forest』は歌詞もスピリットもゴスペルそのもの。これにも<転生>を感じた。彼がいかにアメリカの文化のエッセンスを吸収し、なおかつ本来持っていたヨーロッパ的なセンスを失わなかったか、ということがよくわかる。このアルバムは、デイヴィット・シルヴィアンのこれまでの足跡が見事なまでに刻印されています。意外に思えるデレク・ベイリーの二曲への参加もまたしかり。ベイリーもヨーロッパ中心主義の即興音楽の世界から、ジョン・ゾーンとのコネクションによってニューヨークの雑多な音楽観を取り込んでいったり、ドラムンベースのDJと組んで異種格闘技とも思える無節操な共演を試したり、とにかく自分を外へ外へと開いていこうとした。にもかかわらず、旅の果てにある自分の在り処を探ろうとしていた。よく考えてみれば、実は、このふたりは同じような道を巡り、同じような境地に辿り着こうとしていたかのように思えます。まったく色合いの違うふたりがこのアルバムで邂逅したのも、ある種の必然とすらいえるでしょう。

あるひとつの生のなかで輪廻する。そして、より大きな環のなかで、転生する音楽。

書き進めるうちに、夜が明けてきました。窓の外を眺めると、街はまだ眠っています。向かいのビルの窓の明りが、ひとつ、ふたつ、と灯っていきます。『ブレミッシュ』をかけながらコーヒーを啜っていると、空っぽの空間が研ぎ澄まされたサイレンスで埋まっていきます。透明な光がひろがっていくようです。

(2003年12月)書き下ろし原稿


Last updated: July 2, 2008