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迷宮の中で

モリ・イクエ『Labyrinth』

恩田晃

なにを隠そう、わたしはずっとモリ・イクエに憧れ続けてきた。ずっと彼女の音楽を追い続けてきた。初めて彼女の音に触れたのは十年以上も前のことだ。大阪の小さなライブハウスでジョン・ゾーン、山塚アイ(現ヤマンタカEYE)らと演奏していた。ドラムかなにかを叩いていた。どんな音楽だったかはよく憶えていない。ただ、彼女の発する音の<不思議な感触>だけがわたしの脳裏に深く刻み込まれた。アンサンブルという概念をひっくり返すかのようにひたすら浮遊し続ける音たち。彼女の音はあまりにも異質だった。それ以来、新しいアルバムを聴くたびに、演奏に触れるたびに、そして彼女自身に逢うたびに、わたしは<不思議な感触>がいつもそこに在るのを目の当たりにして、ある種のやすらぎを憶えた。それと同時に、何故だかよくわからないのだが、畏怖の念も憶えた。相反するふたつの力に搦めとられるようにして、わたしはさらに彼女の音楽に引き込まれていった。

数カ月前のことだ、ニューヨークから北上するアムトラック(大陸横断鉄道)のなかでモリ・イクエとばったりはち合わせた。コネチカット州でキム・ゴードン、DJオリーブと組んだトリオのギグがあるという。その時に新しいアルバム『Labyrinth』を手渡された。デジタル空間の<ラビリンス/迷宮>へと。ドラム・マシーンからラップトップへ楽器を切り替えてから初めて使られたアルバムだ。ジャケットにあしらわれたエッシャーの絵のように、そのなかではモリ・イクエの姿が万華鏡のごとく映し出される。よりアブストラクト。一枚の鏡に自己を投影していた過去のアルバムとはやや趣きを異にする。ラップトップのなかで音(=モリ・イクエ)の粒子は無限大に自己増殖し始め、途方もない空間が現出している。聴き手はモリ・イクエの<ラビリンス/迷宮>に迷い込み、音の渦のなかを手探りで進むことになる。意識でなにかを掴み取ろうとしても無駄だ。なぜなら、彼女の音楽は無意識のレベルにダイレクトに働きかけてくるものだから。ありとあらゆる優れた音楽というものは個人の意識を超えたところに存在するものだ。とてつもない驚きに満ちているものだ。観念的に音楽をコントロールしようとすれば、音楽はただちに退嬰化する。モリ・イクエにとっては、意識を離れた<ある音楽的な状態>を浮かび上がらせることこそが大切なのだ。彼女がラップトップを使おうといきいきとした音楽を生み出せるのは、音楽をする動機があまりにも明解で、かつ本能的にそれを追い求めているからだろう。その点は、巷にはびこる凡百のラップトップ演奏家とは明らかに訳が違う。ラップトップ現象では「わたしはなにをしています」という意図が重要で、ただ音楽を奏でるだけではゆるされない。(もしくはなにも考えていない。罠があることにすら気づかない)そして、彼らは観念的な力を方法論として用いることによって、自らを表現していると錯覚する。音楽はいつからそんな矮小化された自意識を拡大生産するトゥールと化したのか?

モリ・イクエは彼女の音楽についてあまり話さない。特に、それがなんなのか、本質については決して語らない。潔いほどに寡黙。(他のことはよく話す。美味しい食べ物の話や他人のゴシップや…)でも、本当は語りたくても語れないのだ。なぜなら、モリ・イクエ自身が彼女の創り出す世界に呑み込まれてしまっているから。主客同一の極み。本質ではなく実は体質。ゆえに、音楽は自らを映し出す鏡と化す。鏡に映るモリ・イクエの姿はモリ・イクエでしかない。(世の中、こういう潔い音楽家がずいぶんと減ってきているような気がする)モリ・イクエの音楽はあまりにも豊かだ。彼女から溢れ出てくる<不思議な感触>はいつまでたっても解き明かされることはないだろう。ずっとそこに在るだけ。彼女の音楽から---- 永遠----という未知の感覚を憶えるはわたしだけだろうか?

『スタジオ・ボイス』2001年12月号掲載


Last updated: September 17, 2002