Improvised Music from Japan / Information in Japanese / Aki Onda / writings

記憶の淵に横たわる都市

恩田晃

あてどもなくセーヌの川べりをうろついていた。エッフェル塔のたもと、ビル・アケム橋にさしかかると、突然、あるサキソフォンのメロディーが脳裏に浮かびあがってきた。甘美ながら胸を刺す痛みをともなう青春の記憶。わたしがベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』を観たのは14歳の時だった。セックスに目覚め、衝撃を憶えた作品だった。

---冒頭のシーン。妻に自殺された中年男、マーロン・ブランドが橋の上で、頭を抱え、「勝手にしやがれ!」と絶叫する。そして、白いコートに豊満な裸身を包んだ若いパリジャン、マリア・シュナイダーとすれ違う。危うげな悦楽と不条理な悲劇の前触れ、タンゴとジャズが絶妙に溶け合った官能的な旋律が流れだす。アルゼンチン生まれ、流浪のサキソフォン奏者、ガトー・バルビエリが作曲したものだ---。

それ以来、わたしにとってのパリは、あの密会のアパートであり、あのダンス・ホールであり、そこで流れる音楽だった。だから、橋を渡った先、メトロの駅の傍に建つバルコニーに縁取られたあのビルを見て、あのアパートを認めて、強烈な既視感(デジャ・ビュ)に囚われた。今でも、入り口に「空き部屋あり」、と貼り紙がしてありそうだった。実際に訪れるのは初めてなのだが、そうとは思えなかった。

パリは、多くの映像作家に霊感を与えつづけてきた。映画のロケーションとなった場所など数え切れないほどある。千の眼が、千のカメラレンズが、セルロイドに彼ら/彼女らの都市を記録してきた。わたしが『ラスト・タンゴ・イン・パリ』から未だ見果てぬパリを想い描いたように、誰しもが映像の記憶にまつわる空想上のパリを持っているのだろうか? それは、時として現実と重なりあうのだろうか? おそらく、我々は、記憶の淵に横たわる都市を、女を/男を、おのれ自身を、パリという光景(スクリーン)を通して幻のように見詰めているのだ。

『音遊人』(2007年)掲載 


Last updated: July 2, 2008