Improvised Music from Japan / Information in Japanese

内橋和久ロング・インタヴュー

2000年9月

ギタリスト、コンポーザー、オーガナイザー。どの面からも絶対に目の離せない優れた音楽家、内橋和久のロング・インタヴューをお届けします。1959年生まれ、神戸に住み、地元での活動を大事にしながら、日本全国をも舞台に演奏活動を続ける精力家。1990年に結成された芳垣安洋 (ds)、ナスノミツル (b) とのトリオ「アルタード・ステイツ」は欧米でも絶大な評価を得ているスーパー・インプロヴィゼイション・グループ。地元神戸で1995年からインプロヴィゼイションの可能性を追求するワークショップ「ニュー・ミュージック・アクション」を主宰し、月1回のペースでの開催を現在も続けている実行力の人。同じく神戸で1996年から内外の興味深いアーティスト50余人を招いて「フェスティヴァル・ビヨンド・イノセンス(通称 FBI)」をオーガナイズしてきた鉄の意志の持ち主。

21世紀にも絶対に目の離せないアーティスト。そんなグレイトな内橋氏は、とてもきさくで面倒見がよいナイスガイとしてもお馴染み。そこにつけこんで、生い立ちから、ギター歴から、ロック歴から、ジャズ歴から、インプロ歴から、ワークショップやFBI、最新の心境まで、何から何までしゃべってもらったロング・インタヴューをお届けします。

これであなたは内橋和久スペシャリスト!

2000年9月16日 取材 / ききて:岡島豊樹 & 鈴木美幸
文・構成:岡島豊樹


ギター事始め

今日は内橋さんがギターを始めてから只今、現在までのことを漏れなくうかがいたいのです。バンド歴もいろいろおありですよね。

中学の時からあるからね。

極力、うかがいます。では最初にギター歴から。12歳でギターを始めたそうですけど、最初に凝ったのはどんな音楽でしたか?

フォークです。

歌いながらですか?

もちろんそうだよ。

じゃあ、最初に弾いた曲は?

う〜ん……。覚えてないなぁ。歌謡曲だよ、たぶん。「平凡」とか「明星」とかって本があったでしょ、あれに付録でコード譜付きのソング・ブックが付いてたよね、あれで覚えた曲だと思う(笑)。歌謡曲ファンだったから。当時はフォーク全盛だったから、フォークが多かったよね。吉田拓郎とか……。

さっそく自分で曲も作ったの?

それはやらなかった。その頃はそういう発想はまったくなかった。ただ、いいなあ、弾きたいなあ。それだけ。コード譜見ながら弾いて、歌っていたりしただけです。

それから、大学時代にジャズを始めるまでの間に、いろいろな音楽を聴いたと思うのですが、最も凝りに凝ったものは? グループ・サウンズとか?

中学の時はビートルズだった。ビートルズのコピー・バンドもやっていたからね。その時は、学校で、授業が終わってから音楽室借りて練習したりするんだけど、僕は補欠だったのよ。メンバーは揃ってたから。ビートルズやるには4人しかいらないでしょ。だから補欠の僕はいつも横で見てた(笑)。弾かしてもらえなかった。

ウチで個人的にずーっと練習してたんでしょ?

うん。しかし、レッスン受けたわけでもなんでもないよ。見よう見まねでやってただけやから。

エレキ・ギターはいつから始めたのですか?

フォーク・ギター買ってからすぐエレキ・ギターも買った。ベンチャーズ・モデルですよ。当時ベンチャーズも流行ってたからね。ベンチャーズ・モデルが一番安くて、1万円ぐらいやったからね。しかし、一番凝ったのはサンタナです。高校時代の後半はずっと、サンタナのコピー・バンドをやってました。20歳超えてから、シャレで「サンタナ・バンド」というのやったこともある。その時は芳垣(安洋)も入ってたけどね(笑)。

じゃあ、高校時代の前半は何をやっていましたか? もうバンドを作ってた?

やってましたね。

どういう音楽?

いわゆるプログレ・バンド。ピンク・フロイドのコピー・バンドとかもやったね。高校時代の後半はサンタナのコピー・バンドをずっとやってた。その時になると自分でも曲を作ってやっていたけど、あとはサンタナばっかりという状態。

インストルメンタル・ミュージックの指向が芽生えたきっかけは?

ジェフ・ベック。昔、ギターだけのアルバムで『ブロー・バイ・ブロー』というアルバムが出たでしょう。あれを聴いたのがきっかけ。歌のない音楽ていうのはあれが最初だった。それまで歌物が好きやったから、インスト物は聴かなかったし、知らなかったけど、あれ聴いて、あっ! と思った。ギタリスト的に一番衝撃だったのはあれですよ。サンタナはどっちかというとハートのほう。ジェフ・ベックはいまだに好きですよ。

以前、福島恵一さんのインタヴュー(季刊『ジャズ批評84号』掲載)に答えて、「ロックだって昔はジャズだったじゃないか」と答えてましたね。

そうそうそう。当時のロック・バンドは、クリームでもレッド・ツェッペリンでもなんでもそうだけど、けっこう即興的じゃないですか。イントロはこうあって、こう展開して、こう終わるというんじゃなくて、もっとラフだったでしょう。好きに始めて好きにやってた。毎回きちっと同じ演奏をするという世界じゃなかったから、そういう意味ではインプロヴィゼイションじゃないですか。それが年々そうじゃなくなってきちゃって、今じゃ型になっちゃったけど、昔のロックはもっと自由だった。

内橋さんも、サンタナのコピーはしてたけども、インプロヴィゼイションもやっていた?

やってましたね。

それは当時は周りから評価されました?

評価なんてされなかったよ(笑)。だって、そういうレヴェルじゃないもん。お客さんは、ただ、知り合いが出てるから見に来たってだけの話でしょ(笑)。べつに音楽を聴くんだ! なんて、そういうやつはいなかったよ。

どんな所でライヴをやってたの?

うん、やってたけど、ライヴ・ハウスではできなかったから、自分たちでどこかのホールみたいなのを借りて、バンドをいくつか集めて、チケットを売ったりとかさ。今みたいにどんどんライヴ・ハウスに出て演奏するという時代じゃなかったよ。そういう意味では今の人がうらやましいな。僕らが高校の頃は、ライヴの機会を作るだけで大変なことだったからね。学園祭でやるか、そんな程度しかなかった。

喫茶店借りて合同でやるとか。

そうそう。音を出してもいいところを借りて、みんなでチケットを売って、ね。


ジャズとの出会い

内橋さんの視界にモダンジャズが入り込んできたのは、いつどういうきっかけでしたか?

高校の終わりぐらい、大学受験の前頃だった。僕が初めて聴いたジャズのレコード、つまり聴こうという意識で聴いたのは、ジョン・アバークロンビーなんですよ。ECMのじゃなくて、スタンダードばかりやっているやつ。ジョージ・ムラーツ(bass)なんかとトリオでやったレコード(『Direct Flight』)で、確かルー・タバキンがプロデュースしてた。

どんな印象?

おおカッコイイ!

どんな曲やってました?

「ステラ・バイ・スターライト」とか「ビューティフル・ラヴ」とかの歌物もやっていたね。今から思えば、かなり変なスタンダード解釈だよ。スタンダードなギター・トリオの演奏というんじゃなかった。もっとめちゃくちゃだった。それを聴く以前に、オーソドックスなジャズというのは雰囲気程度は知ってた。ちゃんと聴いたことはなかったけどね。それがきっかけで、ECMのアバークロンビーも聴いて、それ以来僕はECMにどっぷりだった。

大学時代は、ECM版ジャズをがんがん聴いたと。

好んで聴いてました。

アバークロンビーないしギターということに限らず?

ぜんぜん限らなかった。ECMはほとんど聴いたよ。今でも沢山レコードが家にある。インプロヴィゼイションというか、スペースがある中にどれだけ自由に演奏するかという指向が根付いたきっかけは、僕の中ではECMから始まったかもしれない。ECMは僕のまわりでも流行っていたんですよ。独特だったでしょう。録音のせいもあるかもしれないですけど。僕はいわゆるフリー・ジャズ育ちでもなかったのね。フリー・ジャズってがんがんやるでしょう。そういう自由さじゃなくて、もっと空間がいっぱいあって、そこでひとつの音を大事にして、という感じ。たぶんそれはすごく日本人向きだったのかもしれないけど。それが気持ちいいなあと思ってね。

ECMでは楽器を問わず特にお気に入りというと?

ヤン・ガルバレクとか大好きだった。

大学時代は三味線も

大阪外語大時代はジャズ研ですか?

ジャズ研はなかったんですよ。軽音楽部があったから、最初はそこへ行ったけど、あまりにも退廃していたので止めた。入ってすぐ止めた。おもしろくないもん。真剣にやっている人が誰もいない。掃き溜めみたいなクラブだったな。でも、大学へ行ってクラブもやらないのもなんだし、かといって僕は体育会系じゃない。で、邦楽部へ入ったんです。で、1年半ぐらい三味線やってた。うちの曾おばあちゃんが三味線やってたから、楽器を借りてね。

邦楽部で三味線を? なんでまた? 昔から好きだったんですか?

好きだったからね。津軽三味線みたいのがやりたいと思ってね。でもそこで教えるのは津軽三味線じゃなくて、地唄とかの三味線ね。

邦楽の家系だったの? 曾おばあちゃんが三味線やってということは……。

それはその時知っただけの話でね。音楽的な環境はまったくなかった。親父もお袋も音楽にはなんにも関心がなかったしね。だから、ウチではずっとボロクソ言われてた(笑)。

音楽なんかやってる暇があったら勉強しなさい! とかって?

うん。早くやめなさいって。最初は、どうせそんなんすぐ止めるやろと思っていたみたい。いつまでたっても止めへんから、だんだんマジになってきて (笑) 、そんなことずっと続けてどうするんだって、毎日のように言われた。それがイヤでウチを出たんですよ。

へえ……。じゃあ、大学時代の始めは、三味線弾きながら、ECMを追求し、インプロヴィセイションにも関心を深めていったわけですか?

そうですね。

エネルギッシュに丁々発止がんがんやるようなフリー・ジャズも聴かないわけじゃなかったんでしょう?

いや、聴かなかったし、知らなかった。

ソニー・シャーロックとかも?

あとになって聴いたけどね。シャーロックの入っているハービー・マンのレコードとかね。ラリー・コリエルとツイン・ギターで入ってるやつ。

有名な『メンフィス・アンダーグランド』。

あれはけっこう衝撃だったかな。なんだこのギターは? ずーっとクネクネクネクネ、ボトルネック動かしているだけじゃないか! これは何だ? こんなヤツがいるのかって。ヒドイなあと笑いながら聴いた(笑)。

何かで読んだ資料では、大学時代に早くもクラブやスタジオでプロとして活動を始めたと出ていたんですが、スタジオというのはどういう仕事を?

大学時代はたいしたもんじゃないですよ。関西だったから、それほど仕事があるわけじゃなくて、CMの仕事とか、ローカルな仕事ですよ。

それにしてもスタジオの仕事って、テクニックがないと使ってもらえないでしょう。

テクニックは、ありましたよ(笑)。よく練習したから。昔のほうがテクニックはあったかもしれない 。だんだん下手になってきた(笑)。昔はちゃんときちっと弾けてたんだよね。ジャズも弾けてたし。だんだんピッキングするのが嫌になっていったんですよ。まあ、今でもオファーがあればそういう仕事もたまにするけど。

大学時代はソロ・ギターも手がけましたか?

やらなかった。ジャズでソロ・ギターの練習というのはしたけどね。ジョー・パスとかジム・ホールとか聴いてね。はあ……すごいなあ……とかってね。

エフェクターは使わず?

特に使ってなかった。でもECMを追いかけ始めてから使い始めた。最初はヴォリューム・ペダルです。これは便利だな、と。音が小っちゃくなったり大きくなったりするんだ、へえ……なんて感じ。それとディレイをね。

やはりECMの影響は相当濃かったんですね。

そうですね。最初はもちろんアバークロンビーだったけど、その後、ECMのギターの人はだいたい聴いた。パット・メセニーも聴いた。パット・メセニーは歌謡曲みたいなわかりやすいメロディーだから、これもジャズなのかなあ? こんなわかりやすいメロディで、ぜんぜんジャズっぽくないのに、という感じでね。ビル・フリゼールに出会ったのもECM。

当然、テリエ・リピダルとか。

うん、リピダルもすごく好きだった。

芳垣安洋との出会い

芳垣安洋(1959年生まれ)さんとは大学時代から出会っていたんですか?

いや、その後ですね。彼とは学校も違うしね。彼は大学(関西学院大学)時代から、ずっとストレートなジャズをやっていた。ジャズ・バンドの「ファースト・エディション」をやっていたね。

彼はフィリー・ジョー・ジョーンズ、トニー・ウィリアムスをむさぼり、やがてエルヴィン・ジョーンズ命だったとか。

そうそう。だけど、あいつはあいつで何か違うことをやりたいみたいな気持ちがずっとあった。それで、たまたま出会って、始めたバンドが即興のバンドだったんですよ。インプロヴィゼイションをやったことがないヤツが集まってインプロヴィゼイションのバンドを組んだの。もっと自由に! みたいにしてやったんですよ。まあ、今から考えると、ちょっとヒーリング系だったかな。アグレッシヴなものじゃなくて、すごいリラックスした感じのものだった。

ECMの影響が若干及んでいたと?

そうかもしれない。そのバンドはそんなにおもしろくなかったんだけどね。

でも、芳垣さんとは意気投合したわけ?

そう、芳垣とは気が合って、それから彼のファースト・エディションに僕が入ったりした(1988年)。ちょっと違う感じに展開したいからというのでね。それまでは、ファースト・エディションはストレートなジャズ・バンドだった。オリジナル曲もやっていたけどね。ミンガスの曲とか、いろいろと。

内橋さんが入ってからのファースト・エディションは東京でも演奏しましたよね。89年か90年だったかな、スリー・ブラインド・マイスの何十周年記念コンサートみたいなイヴェントで。

そうそう。

あの時は内輪の事情は何も知らずに見てたけど、ピアノを弾いてた人がけっこう目立ってた感じ。

青柳(誠)(p, reeds) だね。僕は起爆剤だったの。そうするうちに、ちょっと違うこと始めようよということになって、それでアルタード・ステイツを始めたんですよ。

いつ頃までファースト・エディションは演奏を続けてました?

あの後すぐ青柳が東京へ来たり、みんなちょこちょこ東京へ出てきたり、東京に越したやつとかもいて、だんだんうまくつながらなくなって、芳垣自身も東京へ出た時点で続けることができなくなって終わったね。芳垣も東京へ来たら忙しいし、こっちで新しくやりたいことがどんどん出てくる。バンドに対して不満もあったんだろうけど、それもあって、続けようという意欲はなくなっていったんだろうな。

プレイズ・スタンダーズ

いままでの足跡をうかがってみて、少し不思議に感じたのが、わりと最近のアルタード・ステイツの『プレイズ・スタンダーズ』のことなんです。私はてっきり、内橋さんは、大学時代にジャズ研かどこかでモダン・ジャズをいろいろ覚えて、そういう中でスタンダード・ソングとかモダン・ジャズのスタンダード曲も色々覚えてストックした歴史もあったのかなと、勝手に想像していたんですよ。そういうことは尋ねたことがなかったから。

ぜんぜん違うんですよね。ジャズ研もなかったしね。ただ、僕はスタンダードは好きだから、大学時代から、いわゆるジャズ・クラブでジャズ弾きに行く仕事はしてた。週に1回、2回ぐらいはね。だから当然スタンダードも覚えるし、良い曲はやりたいなと思ったし。

『プレイズ・スタンダーズ』の企画で、オレはこの曲ということで提案したのはどの曲あたり?

あれは全部、僕がとりあえずリスト・アップして、どれやりたい? って2人にきいて絞ったの。

あの時の録音で初めて弾いたような曲もあるの?

ある。「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ」とかはね。やったことないけど良い曲だなと思ってね。大半はやったことある。そんなしょっちゅう弾いてたわけじゃないけどね。

リヴァーサイドかジャズランド風のジャケット・デザインは誰の趣味ですか? 50年代末前後、ハイ・フィデリティとかプリントして、らしく装っているけど。

このレーベルの専属の人です。プロデューサーの意向が、そういう古いジャズのLPのジャケットの感じでやりたいという話だったので。いわゆるジャズ・ファンの人にも聴いてほしいという意向でもあったみたい。

ジャケットと選曲を見たら、ジャズ・ファンはジャズ・アルバムだと十中八九思いますよ。

それで買って聴いたらエライことだった、とかあったんだろうなぁ。

アルタード・ステイツの音楽の推移

では、ここでアルタード・ステイツを掘り下げたいと思います。最初期のレパートリー、音楽の方向付けに興味津々なんですが、スタンダードもやったんですか? オリジナルの曲をやったのですか? ジャズ度とか即興度はどれくらいあったのでしょうか?

もともとアルタード・ステイツは一応ジャズ・バンドのつもりだった。ジャズ・バンドだけど、もっとガツ〜ンと何かやりたいと思ったんです。最終的にはインプロヴィゼイションをやるんだというヴィジョンもあった。でも、最初からインプロヴィゼイションといっても上手く行かない。そこで曲を書いた。こういう展開をするとおもしろいんじゃないかというものをいくつか含んだ曲をいっぱい書いたんです。それをやりながら、インプロヴィゼイションのありかたを模索していた。最初は曲ばっかりやっていたんですよ。

曲は内橋さんが書いたの?

そうです。

曲をやるといっても、もちろんインプロヴィゼイションの部分は多分にあったんですよね。

もちろん。間はインプロヴィゼイション。それで、即興的な部分のほうがおもしろいなと思えてきたら、だんだん曲をやらなくなってきた。それには時間がかかりましたね。

何年ぐらい?

4年ぐらいかかったかな。その間は曲をやっていて、ちょっとずつ減らすようにやってきたんですけどね。そして、即興で100パーセントやるようになった。でも、演奏していてマンネリになったりとか、ちょっとおもしろくないなと思いだしたら、また、そうじゃない別のタイプの曲を書いた。それをやって発想の転換を図ったのね。そんでまたおもしろくなってきたらまた曲をやめて、インプロヴィゼイションだけでやった。96年あたりからはぜんぜん曲をやらなくなったね。

最初の前兵衛レーベルから出したCD『アルタード・ステイツ』(92年)は、曲だけの頃ですか?

全部曲をやっています。インプロヴィゼイションの部分は全体で3分の1もなかったと思う。

そうは聴こえなかったですよ。

パワー・トゥールズの影響

ところで、芳垣さんは早くからインプロヴィゼイションということで志を同じくしてたわけだけど、ではナスノミツルさんとはどうやって出会ったのですか? ヤツは即興が上手いと評判だったとかで?

彼はロック・バンドとかファンク・バンドやってたんです。彼に入ってもらった理由というのは、僕の個人的な希望として、下の所でドシッと居るというベースが好きだったからなんです。当時は、妙にテクニック志向のベースが増えてきて、ベースでも上の方を弾きまくったり、一杯音を弾くベースの人が多かったでしょ。僕はあれがすごく嫌いだった。ベースは下だろ、と。だからとりあえず下にガツンとくるやつはいないかというのが重要なポイントだった。そこへ、芳垣がたまたま何かのバンドに誘われて行って、そこでナスノに出会ったのね。で、おもしろいヤツがいるよと。いっぺん呼んでやってみようと。それが最初。だってインプロヴィゼイションは、やってればできてくるものだから。もともとインプロヴィゼイションやっているやつでなければということではぜんぜんなかったしね。インプロヴィゼイションは誰でもできるよ。僕らがアルタード・ステイツを始めた当時、パワー・トゥールズ (Power Tools) というバンドがあったでしょ。

ロナルド・シャノン・ジャクソン (drums)、ビル・フリゼール (guitar)、メルヴィン・ギブス (bass)のトリオですね。

うん、あのバンドがけっこうお手本だったのね。

なるほど。ズーンと低音が充実した中に、スペイシーなフリゼールのギター、重量級で新鮮なリズム。いろんなリズム・パターンが出てきて、フリゼールは背景を彩っていてカッコよかった。

うん、ああいう自由さというのは、すごいなと思ってね。みんなすごい好きだった。僕もその時はフリゼール・フリークだったから。アルタード・ステイツの最初の頃の演奏を聴くとわかると思うけど、かなり似たようなことをやっているでしょ(笑)。

曲をやっていた当時は、いわゆるニュー・ミュージック・シーンは、コラージュとか、カットアップとか、メモリー機能とかを取り入れてすばやく転換するスピーディーな手法も大流行だったでしょ。その影響も感じましたが。

でしょうね。カットアップ、カットイン、カットアウトとか流行っていたからね。いわゆるニューヨークのダウンタウン系の影響だと思う。当時は僕らももちろんそういうのがすごく好きで、すごくカッコイイと思っていた時期だったから、そういうものは盛り込んでいた。でも、ああやって、ここでこう転換してとか、決めてやっていくのは、だんだん飽きるんです。そこに行くのが決まっているから。

変わり続ける音楽

アルタード・ステイツという名前の名付け親は誰ですか?

はっきり覚えてないけど、僕と芳垣で話してて出てきたと思います。名前何にしようかなと言っていて、映画のタイトルから取ろうという話になってね、僕も芳垣も好きなケン・ラッセルの映画のタイトルからいただきました。意味的なものもあったんだけど、単純にあの映画が好きだからいただいたというのが正直なところですね。スティーヴ・ベレスフォードには笑われたけど(苦笑)。「あの映画が好きなの?」というから好きだよと言ったら、「オレは嫌いだな。趣味が悪いよ」とか、ボロクソに言われた(笑)。でも、僕は今でもケン・ラッセルではあの映画が一番好き。あれ以降の作品はあんまり好きじゃない。(アルタード・ステイツは)意味的には、どんどん変容していくというような状態を表わすわけですね。その意味ではズバリだったんじゃないかな。実際当時も、これはたぶんズバリなネーミングだろうなと思って付けたけど。僕らもどんどん変わっていきたいし、変わっていく瞬間を聴いてもらいたい。一所にはとどまらないよ、と。音楽的なスタイルというのを持つことをやめようということだったから。個人的に変われば、バンド自体も変わるし、そういう方がいい。このバンドはこういうサウンドです、というのは絶対やりたくない。変われるようなバンドにしたかった。ふつう、バンドって、ひとつの形ができちゃうと変われなくなるじゃない。その形を演じなきゃいけなくなってくる。それは嫌だったからね。

聴衆から望まれるスタイルを守ってしまいがち、というのはイヤだったと。

うん。聴衆には何も期待させないよ、ということを前提に始めた。それは、すごくシンドかったけどね。僕らはこうです、というのを毎回ちゃんと出しているとお客さんは安心して来れるんだけど、インプロヴィゼイションが中心になってくると余計そうなんだけど、何をやるか、どうなるかわからない。お客さんとしては、期待を裏切られることも一杯あるだろうし。でも、まず、お客さんに期待されるようなバンドは止めとこうと思った(笑)。

プロでバンド活動をするうえでは大冒険でしたね。

でも、それがやりたかった。どうしたらお客さんは期待せずに見に来てくれるようになるだろうか? どうなるかわかんないけど、それが楽しみで来てくれるお客さんを呼びたい、と。

初期は、ぜんぜん来なかった?

来なかった。最近はみんなわかってくれてるからいいんだけど、そうなるまでにはすごい長い時間がかかった。

あのバンドは客が入らないぞ……みたいなのが店の横の繋がりかなんかで知れて、出演しにくくなったなんてこともあったのかしら?

客が入らないから出れない、というようなライヴ・ハウスには出ない、ということですよ。それじゃライヴ・ハウスではないもの。僕らのやっていることが嫌いなんだったらそれはもうしょうがないけど、客が入らないからもうできませんというようなライヴ・ハウスはこっちからもう出なくていい。そうじゃないと思う。

当初から贔屓にしてくれた店ということでは、神戸の「ビッグ・アップル」ですね。

うん。あそこはホーム・グラウンドです。何でも好きにやらせてくれた。客が来た方がいいに決まっているけど、来なくてもしょうがないということで。

大阪や京都ではどんな店で?

大阪は、しばらくは「ベアーズ」だった。ボアダムズのギターの山本(精一)君がやっている店です。もう10年以上前にできた店。あとはあんまりやってない。京都は「磔磔(タクタク)」とかやってたけど、たまにです。そうそう、アルタード・ステイツとして初めて演奏したのは京都だったな(1990年)。「ラグ」というところ。その時は、ゲストに梅津和時さんも入れて4人でやったんですよ。梅津さんはけっこう気に入ってくれて、その直後に、梅津さんは東京に呼んでくれたりした。それが東京へ来だすきっかけになった。梅津さんには感謝しています。

梅津さんは面倒見がいいですね。

うん、おもしろい人とかバンドがいたら積極的に紹介するよね。

アルタード・ステイツ理解者の定着

お客さんが来るようになったなと感じたのは、いつ頃でしたか?

97年、98年あたりですね。あ、ウチらの客だなと本当に思えるお客さんが増えたのはね。それまで、いわゆるニュー・ミュージックと呼ばれる音楽のシーンがちょっと盛り上がっていたじゃないですか。盛り上がっている時に客が来るのは当たり前の話で、そうじゃなくて、シーンではなくて、純粋に僕らの音楽がおもしろいと思って来てくれてる人がいるなと感じたのがその頃。その後、あんまりアルタード・ステイツのライヴはやらなくなったけどね。あの辺が一番おもしろかったかな。95年だったか、『モザイク』を出した時、あれはけっこう売れたんです。あのレコ発を大阪でやった時に、すげえ客が入った。130とか140とかね。もう信じられないくらい。なんでこんなに来るの? たぶんあのCDが良いと思った人がいっぱいいたんだろうけど、レコ発では曲を一切やらなかったの(笑)。その時はもう曲をやらなくなっていた時だから。それ以降、客が来なくなった。せっかくああやって盛り上がってきた時に、何で曲をやらないんだ? とかって、まわりからいっぱい言われたけどね。

もっとビジネス面で戦略的にやったらどうかと。

うん。でも僕はそういう面で戦略的に全然考えない人だから。あの時、わけわかんなくて帰っちゃった人が大半だったんだね。全然違ったからね。『モザイク』は曲ばかり入っていたから。大阪の場合は典型的にそうだったと思う。あの時、客は何かをはっきり求めて来ているわけでしょ。何か期待してくるわけ。そこで、なにも期待に添えることをしないと、お客さんは離れちゃうんだね。ホントに僕らの音楽を理解してくれてるお客さんはそこで考えてくれるんだけど、そうじゃないお客さんは離れていく。

即興だけをやるようになってからのアルタード・ステイツの演奏をいろいろ聴いても、インプロヴィゼイションだけなのか、曲をやっているようなやっていないような演奏に聴こえるんですけどね。そこがまた魅力なんですけど。

いわゆるフリー・ジャズみたいなのじゃなくて、部分部分で形が出てきても、そういうものも含めたインプロヴィゼイションですから。曲みたいなメロディを弾いたりなんかもするし。それを聴いてお客さんは、曲をやっているのかと思うかもしれないけど、それも一応全部インプロヴィゼイションのつもりなんですよ、僕らは。即興で曲を作るんだというつもり。その時に思いついたことをやるのはOK、そこでメロディとか曲みたいなシークエンスが出てきてもOK。そういう意味では、曲とインプロヴィゼイションの狭間がわからないというのは正直な意見だと思う。それはそれで僕らはよかったわけ。「○○だから良い」、「○○だから悪い」、そういうのも嫌いなわけ。曲だからいいとか、インプロヴィゼイションだから悪い、というんじゃない。あるいはその逆でもね。そんなことを聴き手はホントに求めてるの? そんなことはどうでもいいんじゃないの? と言いながらやっていた。オレはインプロヴィゼイションが好きだからといってインプロヴィゼイションだけしかやらない人もいるけど、僕らはそうじゃない。ファッションだけでインプロヴィゼイションだけやっているような人も多いから、そういう人に対して「違うやろ」と言いたかった気持ちもある。

旋律的なものとか形みたいなものを一切排除してればフリーか、というとそうとは限らない。また、インプロヴィゼイションの中には即興で行う作曲行為も含まれているということですね。

相手がやることに対してここでどういうことをすれば、どういう雰囲気になるかとか、何がその時点で浮かぶかということですね。それは結局、作曲してるわけですね、演奏している中で。こんな説明はどうかな。僕がいつも思っていることなんですけどね。アルタード・ステイツは3人しかいない、ま、3人でも十分だと思ってるんだけど。3人しかないから、なるだけひとつ所に集まるのは避けようと。4人、5人、6人いれば、2人とか3人で同じことやることがしばしば出てくる。全員が同じことをやる場合もある。それはたぶん too much だろうと思う。1人でもそれを表現することは可能なはず。そこの上に何人乗っかっても、同じ所にいるだけで広がらないから、方向をいろいろ見つけていく。なおかつ、それは共存できるもの。そうすることによって次の展開がまた、あるわけですよ。みんなひとつのところに集まったら、みんなで一緒に変わらなきゃ変われない。みんながいろんな方向を見ながらやっていくと、どこへでも行ける。そういう意味で、あんまり寄りすぎないこと。2人寄ったら、僕は絶対同じことはしない。次に、絶対違うことをする。そっちのほうがおもしろいよ。

ワークショップ「ニュー・ミュージック・アクション」

そういう内橋さんの音楽観は、即興演奏の楽しさを分かち合うワークショップ「ニュー・ミュージック・アクション」(1995年発足)ともなって現れているわけですね。そもそもそものきっかけは? いつ、いかほどの衝動に駆られたのでしょうか?

僕らより下の年代には、インプロヴィゼイションをやったり、いわゆる変わった音楽をする連中があんまり出てきている気配がないと感じたのが最初でした。しかし、絶対どこかにいるはずだろうと思った。ただ、出てくる場所がないだけじゃないかと思った。実際に、やりたがっている人間はどのくらいいるのだろうか? それを知りたかったんです。ワークショップを始めたら何人くるだろうか? そういうことに興味をもった。僕としても、若い連中がどんなことを考えて、どんなことをしようとしているのかすごい興味があるけど、結局そういう連中と知り合う場がなかったしね。それは凄く危険でしょ。若い人たちがどんなことを考えているか知らないまま、どんどん歳を食うわけだよ。僕は自分がおもしろくて自分なりにやってきたことがあるけど、もっとおもしろいことがほかにもあるかもしれない。そういうのを知りたいし、若い連中とも知り合いたい。だから、その接点となる場所を作りたかった。すると意外にたくさん来た。そんなに公募もしてないのに、20数人来たんですよ。

貼り紙か何かした程度?

そうそう。で、こんなにいるのかと思った。

以来、定期的に月1回をキープですか?

そうです。第一日曜日。

いつも20人前後、集まるんですか?

そうでしたね。今でも17〜18人はコンスタントに来てる。

1回も休みなしでやってきたんですってね。

休みなしです。ただ、正月に第一日曜が一日とか二日だったら、ちょっとやめとこかということはあったけど。

私はビッグ・アップルでのワークショップは見たことないんですが、「横濱ジャズ・プロムナード」や、法政大学で実施したのを見たところでは、最初に参加者が短くソロを演奏し、あとでいろんな組み合わせでセッションしてましたが、基本はそのような進行なのですか?

今は違います。基本的に、初めて来た人にはソロをやってもらう。この人はどんなことをする人かわからないから、それを知りたいからね。ソロというのは基本だと思っているから。だから、ワークショップを始めた半年近くは、ソロしかやってなかった。最初のうちは、カリキュラムを決めて、最初はソロばかりやって、その後、デュオばっかりやって、その後、今度はトリオばっかりやろう。その次はみんなに作曲してもらおう……とね。でもそういうものは2年ほどで終わっちゃった。あとは、そういうのも含めて、セッションをやった。今は、基本的にはセッションしかやらないですね。

セッションするにあたっては、横浜で見たように、参加者がその場で自主的に共演相手を申し出て、組み合わせが決まるんですか?

誰と誰とでやってみたいという希望があればそれを優先するし、なければ僕が、この人とこの人とこの人でやったらおもしろいだろうとか、どうなるだろうか興味がある組み合わせでやってもらう。

第1回から全部来ている参加者はいますか?

それはいないけど、4回目、5回目から全回来ている人はいる。今僕が一緒にバンドをやっている連中ですね。

「ファンタスマゴリア」のメンバーですか?

そうそう。

ファンタスマゴリアは愛弟子軍団なわけだ。

いや、弟子じゃないんですよ、僕は何も教えないから(笑)。ほんと。学ぶのは自分で学ぶんだから。僕が教えることなんか何もないしね。こうやったらおもしろいとか、教えちゃうとダメです。自分で考えないと。その人の中の流れが変わっちゃうから。自然じゃなくなるから。言われるとどうしても気になるから。それがすごく重荷になることもありえるでしょ。僕のやりかたと違うことにも興味深いことはあるはず。しかし、何か言われて、ちょっと考え込んだりする人もいる。だから、音楽のやり方ということに関しては、一切口は出さない。ただ、中途半端にしていた時は怒る。真剣にやっていないとか、集中していないとか、何がやりたいのかわからないとか、そういうことは言うけどもね。音楽的にこうしたほうがおもしろいよ、というようなことは、とてもじゃないけど言えることじゃない。みんなそれぞれ違うんだから。自分のやり方の中でそれを見つけていかなきゃダメだと思うから、そこは絶対自由にしておかないと、みんな歪んじゃうから。

参加者は年下の人ばかりですか?

そうですね。

もう何年も若い人たちの演奏をみてきて、世代間の違い、ということを何らかのかたちで感じることはありますか?

たまにありますね。熱心にくる連中というのは、世代が違う分、フリー・ジャズの熱いところとか、昔のものにけっこう興味津々だったりするわけです。だから、すごく若いのに、オッサンみたいな演奏するヤツもいるわけ。

昔のアーチー・シェップ風の即興みたいだったりとか?

まあね。僕としては、なんでそんなことをするのかな? とかね。そんな連中もいます。このワークショップは別にフリー・ジャズのワークショップじゃないから、インプロヴィゼイションといっているだけで、ポップでも何でもいいんですよ。ポピュラーでもいい。アブストラクトなものでなくてもいいし、ものすごく具体的なものでもいい。音楽的なバックグラウンドはみんなバラバラなわけでしょう。ジャズ聴いたことない人もいっぱいるわけですよ。そうなのに、基本はジャズですよと言っちゃうと成立しないわけです。ジャズでもロックでも演歌でも何でもいいから、その中で即興性みたいなものを考えていけばいい。そこから何か新しいものを作れないか、ということなんです。だから、僕には理解できないものもあるけれども、そういう時がちょっと難しいかな。もっと何かないのかなと思うけども、その人なりにごっついおもしろいものを持っていたりするわけ。それが自分の中で形作られていく過程だから、その段階であんまり言っちゃうと、つぶれちゃうし。だから、なるだけ何にも言わないで、熟すのを待つわけですよ。

ノルウェーのアカデミーでワークショップ主宰

内橋さんは海外へもけっこう演奏に行っているけど、ワークショップもロンドンでやったんですって?

LMCのことですね。あれはいつも神戸でやっている形とは違うものだった。今年(2000年)の春、ノルウェーの国立芸術アカデミーではちゃんとやりましたよ、3日間。おもしろかった。13〜4人来て、3日間ずっと一緒に過ごした。

詳しく教えて下さい。

最近よく一緒に仕事している映像作家の人に頼まれて行ったんです。彼は国立芸術アカデミーの教授で、同校でやってくれと頼まれてね。主にそこの生徒たちが来たんです。そこの生徒というのは、基本的に音楽家じゃなくて、ヴィデオ作品とか映像作品を作るし音楽も作るような人たち。ほとんどがコンピュータとかシンセサイザーを使って音を作る電子系なんですよ。それに、同校の生徒じゃない、いわゆるジャズのインプロヴィゼイションをやっている連中も参加してきた。半分くらいがそういう外からの参加者。コンピュータでしこしこやる連中と、そういうジャズ系の連中をまぜこぜにして3日間ずっとやったんですよ。すごくおもしろかったのは、両者の音楽の作り方自体が根本的に違うこと。アカデミーの生徒たちは音楽家じゃない。外から来た、ジャズをやってたり、そこから始まってフリー・ミュージックをやっている人たちは、高揚していくやり方とか、ここでが〜んと行って、とか音楽的な流れを自分で持っている。アカデミーの学生たちにはそれがない。盛り上がったりとか、ファイティングに掛け合ったりとか、そういう局面のまったくない人たち。そんな音楽のありかたはもちろんあっていいわけ。最近の音響系とか言われている人たちはそういうことを当たり前のようにやっているのかも知れないけどね。それと、ジャズ系の人たちとの絡みがすごくおもしろかった。お互いに凄く刺激され合っていた。電子系の学生たちは、熱くなるタイプの人を怖がっていた。一緒にそういうところではできないから。でもお互いに歩み寄って、おもしろがってましたね。普段は地味にやっていた連中がちょっとエキサイティングなことをやってみたり、刺激し合ってた。

1日何時間くらい?

1日5時間くらいずーっと。ソロやった後、デュオとかいろいろやったし、曲っぽいことをやってみたりとかしたんですよ。

いつも日本でやっているニュー・ミュージック・アクションは、映像の人なんかも来ているんですか?

いや、音楽以外はお断りしているんです。ダンスの人とか、参加したいといってくる人もいっぱいいるけどね。そこまで僕は面倒見きれない。ダンスの人に、それがどうなのか言えないしね。まあ、何にも言わなくてもいいわけだけど。中には、単に他人と一緒にやりたいから来るだけという人もいたからね。それはダンスとか映像とかに限らず、問題なの。そういう人もいっぱい来た。でも、そういう人たちはすぐやめていきますね。一回満足したらその先へ行こうとしない。ずっと来ている連中はその先へ行きたい連中だから、毎月来て、ともかく音が出せるのが楽しいというだけの人はすぐ来なくなる。僕はそれでいいと思ってる。誰とやりたいか自分で選んでセッションするというのを最近ちょくちょくやるわけ。そうするとぜんぜん出る場のない人もいるわけね。すると、感じるものがあるんでしょうね。

ファンタスマゴリア

ワークショップで知り合った面々と内橋さんが組んだグループがいくつかありますね。今活動中のグループは「ファンタスマゴリア」と、他にどんなのが?

つい最近「ミュータント」というのも始めました。

では、最初にファンタスマゴリアについてうかがいますが、どういうきっかけで生まれたのですか? 97年のFBIのプログラムには、「ファンタスマゴリアは現在の内橋和久の集大成である」みたいな紹介文があったけど、事実そうなんですか?

あれはうちのカミさんが書いたの(笑)。「集大成」という言葉、適切かどうかはわからないけど。アルタード・ステイツは、芳垣もナスノも東京へ行ったからそんな定期的にできなくなったし、僕は地元でバンドをやりたいとずっと思ってきたから、おもしろい若い連中が育つのをずっと待っていた。で、そろそろおもしろくなりだした頃に何人かピックアップしてバンドを作ろうとしたというプロセスなんです。基本的には、ソロでちゃんと演奏できる人、というのがある。バンドとしておもしろいものにするためにはね。それと、ジャズ的なことがちょっとやりたかったという気持ちもあった。サンプラーもいるけどね。そうして、機が熟すのを待っていて、いい感じになってきたところで集めた。最初は、劇団「維新派」のために集めたのがきっかけで、ついでにバンドでやっちゃえと。劇団と共演した時はまだファンタスマゴリアという名前ではなくて、違う名前だったけどね。メンバーも少し違うんですよ。

音楽は、曲と即興演奏どっちもやるバンドですか?

初めは全部僕が書いた曲をやってたけど、最近はインプロヴィゼイションばっかりやってます。アルタード・ステイツのケースと同じです。ごく最近では、曲もまた続けてもいいかなとも思ってる。6人と人数が多いから、即興でやってもおもしろいけど、曲をやるのもおもしろいだろうと。曲をやるのとインプロヴィゼイションをやるのと、差別化をするのをやめよう、同じ気分で両方できればいいいんじゃないかと今は思ってますね。

CD『ファンタスマゴリア』を聴くと、かなりめまぐるしく展開してますが、内橋さんは指揮したりしてますか?

いや、ぜんぜんしてない。曲といっても、テーマの譜面があるだけですよ。曲によっては、次にこう行って……と書いたものもあるけどそれは例外的。間の部分は全部即興。あのCDに入れたのは、半分ぐらいは曲じゃないしね。

すると残りの半分の、曲じゃないものは完全即興?

そう。

即興中に、たとえば誰かと誰かが組んで一緒にここで入りましょう、みたいな進行も含んでいたりするんですか?

いや、そういうことはなるたけするなと言ってる。管楽器だけ集まってなんかしようぜ、みたいなのって、あざといでしょ。基本的に、音楽の流れはナチュラルに、ナチュラルに、なんです。いつも言ってたのは、ひとと同じことするな、集まらないように、と。たまたま合うということもあるし、書いてある部分がそう聴こえたかもしれない。

じゃあ、コンダクションのような音楽の作り方は好まない?

嫌い。ああいうふうに支配されるのは凄く良くないと思う。おもしろいのは、コンダクションをしている人だけだから。

じゃあ、ジョン・ゾーンのコブラはどうですか?

あのアイディアはおもしろいと思います。でも、何回かやったけど僕は生理的には合わないなぁ。展開が速すぎて、ゆっくり何か考えるという発想のものではないでしょう。そういうのがおもしろいと思っていた時期はOKだったけど、今は興味が持てないんですよ。それでも、いろんな人の出会いがあるということも含めて、定期的に続けていくのは良いことだと思う。コブラはある意味でワークショップ的なものだと思うしね。

ミュータント

では最新グループ「ミュータント」について。

これがまたおもしろい。サックス奏者3人と僕のバンドなんだけど、3人はサックス吹かない。マウスピースを外してる。

マウスピースもリードも使わない!?

キーの開閉音とフィードバックだけ。上と下にマイクを仕込んで、ある周波数をフィードバックする。運指によってすごくフィードバックする音がいっぱいあるので、それだけでやっている。僕はたまにギター弾いたりダクソフォン弾いたりする程度。何もしないで、エンジニアやってるだけの時もある。もうほとんどアフリカン・ミュージックみたいな音になる。

パーカションのポリリズムみたいなもの?

うん、ああなったらパーカションだよね。

発案者は誰?

僕(笑)。

どうやって思いついたの?

ファンタスマゴリアの岩田江君が前からたまにフィードバックさせたりしてたのね。なるほどと思って、それだけで何かできないかなと彼に相談したら、できるんじゃないかなという。じゃあ、やってみようと。それで、ウチに来て、ウチのミキサーに全部ぶっこんで、ずーっと練習してた。おもしろかったなぁ。

いつ旗揚げしたんですか?

このあいだ(2000年)の盆のワークショップのフェスティヴァルです。実は毎年夏の盆あたりに、ワークショップのフェスティヴァルというのもやってるんですよ。1週間、店(ビッグ・アップル)を借り切って、1日4グループづつ1週間べったりやって、計28バンド出る。今年で3回目。このフェスティヴァルというのは、毎年1個は新しいプロジェクトをやろうと思って決めてきたから、それもあって今年はミュータントをね。

そのフェスティヴァルはお客さんを迎えてのものですね?

そうです。

ミュータントの反響はどうでした?

ぜんぜん盛りあがらないから地味だけど、評判は良かった。地味ですけどと言いながらやったよ(笑)。

そのフェスティヴァルの組み合わせは内橋さんが決めてるんですか?

僕が全部決めています。普段のワークショップでやっていて、すごくおもしろいものがあったら、そのセットも出る。個人個人で、僕はこういうプロジェクトをやりたいんだけどという強い希望があれば聞く。でも、セッション的なものよりも、何かひとつのコンセプチュアルなものにトライしてみないかというのを基本にしているフェスティヴァルなんです。インプロヴィゼイションはいつもやっているから、その上に立って、何かひとつコンセプトのあるおもしろいものを作ってくれとオーダーしてね。中にはインプロヴィゼイションのものもありますよ。インプロヴィゼイションでやってもコンセプチュアルになる人たちもいる。それはそのまま出てもらったりする。ミュータントの場合は、方法論としてはコンセプチュアルだけど、内容は全部即興です。

FBI(フェスティヴァル・ビヨンド・イノセンス)

「FBI」はワークショップの「ニュー・ミュージック・アクション」の延長と解釈していいのでしょうか?

そうです、延長、連携。「FBI」はワークショップが始まった次の年(96年)からでしょ。せっかく若い連中が出てきたんだったら、彼らを交えて、いろんなものを紹介できる場所を設けた方がいいと思った。第1回当時は、ちょうど東京で催された「ミュージック・マージュ」だとか札幌の「NOWミュージック・フェスティヴァル」と提携できた。ちょうどいい時期だった。

提携のこと以前に、そもそも大きい場を作ろうという考えだったわけですね。

そうです。大きいイヴェントがあればいいと思っていた。こういうものを紹介する場所がなかったから。普段、ライヴをちょこちょこやっていてもお客さんは来ないからね。もっと大きいかたちで見せないとお客さんは来にくいだろうなと。だから大きい所でいっぺんにいろんなものを見せてしまえ、ということでね。そういうお祭り的なものもあったほうがみんな楽しいだろう。若い連中もおもしろくなってきたのに、人知れずやっているだけだったら何も展開していかないだろう。人と知り合うこともないし、と。1年間の総決算という感じだけど、そういうお祭り的なものがあったほうが励みになると思った。もちろん自分にとってもね。

当初は50人を超える出演者でしたが、今は?

今もそれぐらい、だいたい50〜60人が続いてる。

「FBI」の規模で継続するのは、肉体的にも大変でしょう。それを、日頃の内橋さんの活動を支持している人たちや、ワークショップの参加者の皆さんがボランティアで支えてくれているわけですかね?

そうです。方向性は僕が全部作るけど、みんなでやっているようなものです。最近は、みんなもいろいろアイディアを出してくれる。

それはけっこうですね。それはまさに目標のひとつですよね。神戸市からの理解ということではいかがですか?

理解してもらえていますよ。最初の年は、お願いしますよといったら、あっさり断られたけどね。それはそうだ。何やるかわからないわけだし。

かつて日本になかったタイプの音楽フェスティヴァルだから、理解しようにも判断材料がなかったでしょうからね。

神戸市の文化局の人が最初に言ったのは、本当に続ける意志があるのか、どういうことをやるのか、ということは見てみないとわからないから、とりあえずやってみなさい、おれは見に行くから、と。その人は第1回を見に来た。見て、やりたことはよくわかったからと、次の年から助成もしてくれている。ただ、お役所のことだから、定期的にお金を出すということではいろいろ難しい事情があってね。「癒着」と誤解されたりする。なんでこれに助成金を出すのに、これには出さないんだ? その線引きは誰がしているんだ? その人にどれだけの権限があるんだ?……という話になっていく。お役所仕事は難しいよね。

お役所ということに限らず、神戸の街で、「FBI」に対する見方が変わってきたというような感触は何かありますか? 街の話題性とか。

街の話題性が変わったというような感触はまったくないですね。ずっと神戸でやってきたけど、神戸でやる意味があるのか? というのが今の結論です。ほんと。神戸としては何も変わっていない。お客さんは神戸の人というよりも、大阪、東京など他の所から来る人たちが大半です。地元の人ももちろん来るけども、増えているという感触はまだないんですよ。

では、ビッグ・アップル界隈における日常的なライヴにくるお客さんについてはどうですか? 動きはありましたか?

ないですね。5年前と何も変わっていないかも知れないな。

変わっていないけども続けなければいけない。そこに道がなくても進まなくちゃいけないと。

そう。5年間ずっとワークショップをやってきて、毎回、初参加の人がいるという事実はあるんですけどね。知らない人が毎回来る。それと去年(1999年)は、「FBI」のお客さんに、初めてお見かけする人がたくさん来た。それも若い人。リピーターが多いのは嬉しいけど、そればかりだと増えないから、これは収穫ですよ。

即興ソロ・パフォーマンス事始め

時代的に前後しますが、内橋さんのもうひとつの重要な活動である、即興ソロ・パフォーマンスについてうかがいます。まず出発点を教えてください。

何も決めないで、ひとりだけでやった最初は87年頃だったかな。といっても、その時は、曲をやらない、何も決めないで演奏してみるという試みだけだったけど。それはECMぽいものでしたよ。

その時、発展できるぞというようなプラスの感触は持ちましたか?

いや、その時はなかった。そういうことを試みるというだけで終わっちゃったな。その後、ソロはそんなにやらなかった。定期的にソロ・ワークもやりだしたのは、アルタード・ステイツをやりだしてから。90年代に入ってからだった。

即興でソロ・ギターを演奏するということは、音を出しながら、音を出し続けるきっかけ、モチヴェーションを絶えず自分で作り出していかなければならないわけですよね。そのための工夫をいろいろとしてきたと思うんですが。その推移はいかがでしたか?

最初は、ひとりで、何も決めないでやるということが第一の目的だったから、音楽的な内容であるよりも、自分の中で自分の気持ちがどう変わっていくか、それだけのことだった。ソロの音楽としての営みかた、作り方ということは全然わからなかった。お手本のようなものを聴いたこともなかった。逆に言えば、それが良かったのかも知れないけど。ビッグ・アップルが90年代頭に始まって、そこで海外から来た人たち、日本のいろんな人たちとセッションする機会があったんです。神戸で「レコードJR」〜当時フリー・ジャズとかインプロヴァイズド・ミュージックのレコードを置いている唯一の店だったんだけど、そこを経営している小田さんという人がビッグ・アップルを使ってコンサートをやっていて、いつも僕を共演者として呼んでくれていたんですよ。そのおかげで、すごくいろんな人と知り合って、いろんな人と一緒にやるようになった。そんな中で即興というもののアイディアが自分の中でちょっとずつ膨らんでいったのね。それで定期的にソロを始めた。それまでは、即興がなんなのかもよくわからなかったしね。そんな頃、91年にドイツからハンス・ライヒェルが来て、一緒にセッションした。彼は僕を気に入ってくれて、直後に僕をドイツに呼んでくれた。そこからすべてが始まったような気がする。僕のインプロヴィゼイションのファースト・レコーディングって、ライヒェルのFMPのCDに入っている91年のあの演奏なんですよ。

Stop Complaining / Sundown』(FMP) ですね。当時、すでにライヒェル氏はダクソフォンもやってたでしょ。

やってた。自家製のチェロもやってた。彼はもともとチェロ奏者だから。ヴァイオリンも弾くしね。

最初のダクソフォンは、大工道具みたいなかっこうでしたよね。

最初はね。でも、91年には今のような形はある程度あった。

あれはギターじゃないけど、内橋さんは興味を持ちました?

その時は、ダクソフォン自体にはそんなに興味は持たなかった。彼もまだ模索中だったし。それより、やはり彼のギター奏法のほうがおもしろかった。単純に奏法・演奏技術面というよりも、音楽性の方で共有できる部分があると感じましたね。

エフェクター観

これまで色々なエフェクターを使ってみて、いらなくなってはずしたり、新しいのをいれたりした歴史があったと思います。ギターは、エフェクターがなくても成立している確固とした楽器、そのうえでエフェクターなわけですよね。どのような発想で取捨選択をしてきたのですか?

僕の使い方としては、こういう音を出したいからこのエフェクターを使う、といったような発想では元々ないんですよ。僕の場合はディレイのマシーンを沢山使うでしょ。それによって自分が自分の共演者を増殖している。もともと自分が弾いたものしかそこには取り込まれないわけだけど、それが別の人格で出てくる。もともと自分から出た音ではあるけれども、すでに違う形となって返ってくる。そいつらと一緒に演奏しているというような発想。全部自分でコントロールするんだよというのじゃおもしろくない。たぶん、キカイを使っておもしろがっている人ってみんなそうだと思うんだけど、思い通りにならないことがおもしろい。え? こんな音が出てきた!? といったような偶然性がおもしろい。そういう意味で、融通性のきかないやつのほうが可愛気があるし新鮮。逆に、このプリセットでこう弾いたらこういう音が出てくるということが始めからわかってたら、もう、やる気なくなっちゃう。それはわかっていることだから。そんなんじゃおもしろくない。自分が予想しないようなことにならないと、新鮮な気持ちで受けとめることにはならない。僕にとってキカイとはそのためのものです。

同じキカイを似通った条件のもとで何度も使っていると、早々に全部わかってしまうということはないんですか?

いや、けっこう奥深いですよ。毎回発見がある。で、発見がない時のライヴはつまんない。コンピュータ・ミュージックをやっている人でも、そうじゃないのかな。自分の思い通りにならない方が、キカイが勝手にやるほうがおもしろい。千野秀一さんもそんなことを言っていたな。もう弾かなくてもいいんだよ、勝手にこいつが音を出しているんだよ、と。でも、いつも同じ音は出ない。それがおもしろいって。生理的に理解できないところで出てくる音と付き合う。

ニュー・サウンドへの転換

ソロ・アルバムCDは2枚、ヴィデオが1本出ていますね。新しいのはいつ出ます?

もうじき新しいのを出そうかとも思っているんだけど、迷ってるんですよ。今ちょっと違う方向に向かっているからね。新しいギターも買って、システムを全部変える準備にかかっているんです。ここ2カ月以内に全部変わっちゃうと思う。

どうしてそこまで思い切ったんですか?

今のシステムでずーっとやってきて、これ以上の可能性はあるかな、たぶんもう出尽くしたんじゃないかなと思うから。自分の中で、新鮮度がどんどん低下してきたから、システム自体を変えていかないとたぶん対応できないと思ってね。

エフェクターの種類を変えてしまうんですか?

そう。それととともにだいぶ減らす。ギター自体も、違う音のするものに変えた。

よりランダムな返りがあるシステムをということじゃなくて?

というより、今までは、ギターはギターだけど、ギターらしくないものの方向にだいぶ指向が向かっていたから、ギター側に戻すつもりもある。

ストリング・インストゥルメントのサウンドが戻ってくる。

うん、弦楽器としての可能性のほうに集中しようかなと思ってね。

今度(2000年)の「FBI」で、新システムが聴けるんですね。

そうですね。まあ、でも同じ人間がやることだから、根は一緒なはず(笑)。

共演歴から 1:featuring 姜泰煥(カン・テーファン)

内橋さんには内外のミュージシャンとの実に輝かしい共演歴がありますね。ギタリストでも、デレク・ベイリー、ユージーン・チャドボーン他。今日はそんな中でも、最近の海外のミュージシャンとのコラボレイションに絞ってうかがってみたいのです。たとえば、このところ盛んに交流している韓国の姜泰煥 (alto sax) さん。どこがどうなって意気投合したのですか?

意気投合したというのとは違うかもしれないけど。姜泰煥さんとは昔、91年あたりにビッグ・アップルで一度共演しているんですよ。その時は僕はすごい衝撃を受けた。初めて姜さんを聴いた人はたぶんみんな衝撃を食らってると思う。あまりにも異質なものだった。すごく独自性があるうえに、すごく自然体の演奏だった。技巧というよりも、ハートフルな感じから来る印象がすごく強かった。あの時は、姜さんのソロを聴きながら、一緒に演奏なんかできないと思ったなぁ。芳垣も一緒に3人で共演することになってて、どうする? って芳垣と言い合った。実際、一緒に演奏したけど。彼の音楽性から影響されたものはすごく多かったですよ。演奏した後で話した時もすごくピュアな人、純粋音楽指向、ひたすら音楽だけに集中する人と感じた。そういう人とはなかなか出会えなかった。人間性がそのまま音になっているから、すごく説得力があった。姜さんに出会って励みになったことはすごく多い。やっていこう! がんばろう! とね。またいつか共に演奏できる日が来たらいいなと思ったし、それ以降、姜さんのことはずーっと頭の中にあったけど、長いこと会っていなかった。「FBI」を始める時も、最初に絶対、姜さんに出て欲しいと声をかけたんだけど、忙しくて実現しなかった。去年(1999年)やっと、来てもらえることになった。久しぶりに聴いて、姜さんは変わったなと感じた。昔に比べたら、人と演奏することの感覚がだいぶ姜さんの中で変わったように感じる。昔は人と演奏しても(ソロの時と)同じだった。デレク・ベイリーのある時期みたいな。でも、久しぶりに会った姜さんは、(共演者の演奏を)すごく聴いている。それにまたびっくりした。それで、一緒にやりましょうよということになって、ツアーもしたわけです。姜さんはすごく気にいってくれて、嬉しいね。

共演を入れた『クリアネス』聴きました。素晴らしい! 来たる(2000年)10月に韓国でも一緒に演奏するんですって?

そうなんです。

共演歴から 2:featuring ヘルゲ・ヒンテレガー

共演できていいものをもらったという経験は、他にも何度かありましたか? あるいは異質な出会い、衝撃の出会いといえるものは?

ただの共演では終わらなかったなという人は数人いますね。ハンス・ライヒェルもそのひとりだし、ネッド・ローゼンバーグもそうです。ネッドの場合は、異質の遭遇というのではないんですけどね。ネッドと共演することは、そんなに不思議じゃない。予測がつく、という意味でね。もちろん、いいコンビネーションを作れるからおもしろいけど、それはとても楽なんです。ニューヨークのダウンタウン系の人たちって、ネッドもそうだけど、すごく反応が早いし、技術的に卓越したものがあって、どう来てもすぐ食らいついてくるから、カンカンカンカンとスピーディに行く。それはすごく楽なわけ。僕もかつては、そういうニューヨークのダウンタウン系の、カットアップして凄くスピーディに展開する演奏がすごくおもしろいと思っていて、凄くフィットしたけど、最近はそうでもなくて……。今もネッドは凄く素晴らしいサックス・プレイヤーで、音も凄いし上手いし、ネッドとは相性も悪くないと思うけど、これから一緒に何か新しい経験ができるかということになると、どうかな……。

このところオーストリアへ行っては共演しているヘルゲ・ヒンテレガー (sampler, saxes) とは新鮮な、将来に繋がる経験ができてる?

そうですね。

去年(99年)「FBI」に来ましたね。彼とはいつ出会ったのですか?

グラウンド・ゼロでオーストリアに行った時(1997年)だから、もう4年前。彼は国の仕事をしていて、コンサートの企画をしたりとかしてるオーガナイザーでもあるんですよ。大友(良英)の推薦で、いっぺん一緒にやってみたらおもしろいんじゃないのという話をした翌年、ヘルゲが僕を招んでくれて一緒にツアーをした。その時のレコーディングが The Comforts of Madness の1枚目の『Autism』。ロジャー・ターナー (drums, garbage) とトリオです。すごくおもしろかった。1曲50分。

フリー・インプロヴィゼイションですか?

ヘルゲがテープでストラクチャーを作った上に3人で即興してる。生々しいですよ。ぜひ聴いて下さい。

生々しい?

ダイナミック・レンジが凄く広い。

ヘルゲ・ヒンテレガーのどんなところに新鮮味を感じているのですか?

CD聴いてもらえばわかると思うけど、彼の音楽はすごくクールなの。いわゆる盛りあがったりする演奏というのが一切ない。すばやく返ってこないのは、最初は、なんかつまんないなと思った時もあったけど、今は違う。彼はそういうことに美意識を感じていない。すごく繊細。その場その場の繊細な独特なしかたの反応はあるけど、音楽の組立はすごくゆっくり流れるというものなんだ。細かく細かく、ディテールを大事にして進んでいく。細かい変化をすごく楽しんでいる。かなりおもしろいと思う。

ジム・オルークの感性ないし音楽に近いものがありそうな……?

ちょっと近いかも知れないね、シカゴの若手たちとは。ケヴィン・ドラム (table guitar) あたりともたぶん共通点はあると思う。

今後も交流は続きそうですか?

来年(2001年)はサム・ベネット (electronics, pecussion)と3人でやれたらと思ってる。そうそう、サム・ベネットとも僕は気が合うし、触発されるものがある。サムも最近変化してきて、おもしろいよね。

どうやら、盛り上がらない音楽、地味な音楽、というのが今の内橋さんの傾向ですかね?

盛り上がる音楽が嫌いというわけではないんですよ。作為的に盛りあげることはしたくないということ。自然に盛りあがるんだったらOK。こう行くもんだ! みたいな作為とか、意識してそこへ向かうというのはもうしたくない。自然に流れるのが僕にとってはベストなのね。あざといことは自分から進んでやりたいとは思わない。ますます地味になっちゃうかもしれない(笑)。派手じゃなくなるよね。

劇団「維新派」との交流

曲を書く、メロディを書く、スコアを書く仕事も長年にわたってやってますよね。今でも演奏と並行して続いていますか?

たまにありますね。そういう仕事はやぶさかじゃないです。メロディを書くのはすごい好きですよ。他の人の曲を書いたりもするし。あんまりオファーは来ないけどね。

曲作りでは、劇団「維新派」との付き合いはそうとう長いですね。今年(2000年)も春に長いこと一緒に海外に出てましたね。

オーストラリアで2カ月。来年(2001年)も行きます。今度はハンブルク。

海外で好評なんですね。

そうなんです。セリフは日本語だけど、ストーリーとかあんまり関係ない。

じゃあ音楽の役割も大きいわけだ。音楽も受けたんじゃないですか?

うん。

むかし法政大学で公演した「青空」しか見たことないんですが、最近の出し物もやはり内橋さんが音楽を全面的に担当して、テープで作ったうえで、内橋さん自身の演奏もその場に入るかたちですか?

そうです。

いつからコラボレートしているんですか?

15年位前からだけど、僕が曲からなにから全部作るようになったのは89年からだね。

「青空」では素敵な、叙情的なメロディーがたくさん出てきましたね。

あの時はメロディックだったけど、今回は違うの。出し物によって全然違うんですよ。

維新派は内橋さんを抱えて離さないといったところのようですね?

さぁ、どうなのかな? 今の形というのは一緒に作った形だから、僕がいなくなると違うものになる、それだけの話ですよ。舞台と美術と照明と音楽の総合的な表現だから、僕の時とは違ったものになっても、それはそれでいいんじゃないかと思う。僕である絶対的な必要はない。僕がいるからたまたまこうなっているということですね。

他の劇団とか舞踏団との関わりはないんですか?

維新派の座長は元々は舞踏の人なんですよ。

維新派はもともと舞踏のグループですか。

そうそう。その頃から付き合ってるけど、舞踏の頃は曲はなくて、全部即興だった。舞踏では、今はないけど「白虎社」とはやりましたね。あと、大野一雄さんとか……。

映画音楽

CM、テーマ・ソング、映画音楽といった方面でもけっこう作曲してますね。映画では、大友良英さんが手がけた『藍風箏』、『息子の告発』、『キッチン』他に演奏で貢献していますが、内橋さんが中心となって手がけた映画音楽ではどんなものがありますか?

最近では『流星』かな。おととし(1998年)封切りになったけど、興行成績はあまりパッとしなかったみたい……。緒方拳、江口洋介が出てる競馬の映画なんだけどね。

豪華キャストじゃないですか。それでもダメ?

でもインディペンデントの単館上映です。山形でやってたロケハンを1日だけ見に行ったけど、その時、緒方さん、「僕はボランティアですから」とボランティアのスタッフの人に言ってるのを聞いた(笑)。けっこうインディーズ物は好きみたいですよ。

それで、音楽は?

ヴィデオをもらって、シーン○、ここからここまではこれ、という感じで普通に作って、植村昌弘 (drums)、江崎将史 (trumpet)、関島岳郎 (tuba)、松本治 (trombone) ほかの皆さんに来てもらって録った。

ジャズっぽい演奏?

いや、ぜんぜん。かる〜い、ふぬけの音楽です(笑)。

そう言われると余計見たくなるな。

ヴィデオ出てますよ。

映画音楽の処女作はなんですか?

88年の『ドドンパ娘川を行く』だけど、これは見てほしくないよ(笑)。

『鉄塔武蔵野線』もその頃ですよね。こないだNHKでやってましたよ。

NHKは衛星とかでよくやってる。ほのぼのとしたロード・ムーヴィー。子供が主役の『スタンド・バイ・ミー』調の映画。基本的に、おおたか静流さんにきた仕事で彼女の歌がメインです。高良久美子 (vib) さんも呼んで、一日かけて画(え)を見ながら3人で作った。

ソング・プロジェクト

内橋さんはかねてから、日本語とメロディがフィットして、なおかつ現代の感覚にもマッチするソングのありかたというのを求めているというようなことをおっしゃってましたよね。それをアピールするように、HACO (vocal) さんやジーナ・パーキンス (el-harp) さん、サム・ベネット (electronics, percussion) さんと「カンパネルラ」というソング・プロジェクトもやりましたね(1996年)。その後も何か新しくソング・プロジェクトはやっていますか?

やりたいけど、僕は詞が書けなくてね。そこがネックだと思ってる。僕が詞を書ければ、メロディと言葉の関係がもっと密接になると思うけど、詞を書かない人が曲を書くと、なんかこうくっつけることになるから、どこまでナチュラルにできるかというのは難しい。

密かに詞を作ってたりしません?

ないね(笑)。僕はまったく詞の才能がないから。残念ではあるけど。僕にはムリですね。でも、歌のプロジェクトはすごく好き。声の人と何かするのはすごく好き。だから今年(2000年)、シェリー・ハーシュ (vocal) を招ぶんです。

素晴らしい。シェリー・ハーシュ初来日、快挙ですよ。嬉しいな! ところで、おおたか静流 (vocal) さんとは付き合いが長いですが、内橋さん自身の曲というのもけっこうCDに入れているんですか?

今まではなかったですね。彼女の次のアルバムには1曲入りますよ。次のはアカペラ。声だけで作っちゃう。

内橋さんの曲ってどんなの?

今年の1月に維新派用に作った曲。座長が詞を書いて僕が曲書いて、芝居の中で歌われるテーマ曲を1曲作って、彼女に歌ってもらったのね。それをアカペラで入れる。


[付記]

このインタヴューは2000年9月16日、新しいギターを入手し新しいサウンド・システムへの転換を図っている最中の慌ただしい中、東京を訪れていた際の内橋氏を、無謀にも大衆コーヒー店「ルノアール」にて4時間程カンヅメにして行ったものです。11月の記念すべき「第5回フェスティヴァル・ビヨンド・イノセンス」開催の前に掲載したかったのですが、当方の事情で遅れて内橋氏に大変失礼なことになってしまい、心からお詫び申し上げます。

内橋和久氏関連の活字資料を希望されるかたには、私が携わっている媒体で恐縮ですが、季刊『ジャズ批評84号』(内橋和久インタヴュー掲載)、『87号』(芳垣安洋インタヴュー掲載)、『90号』(討論「96フェスティヴァルの再生」内橋和久・沼山良明・松原幸子)をお薦めします。(岡島豊樹)


Last updated: March 8, 2001