Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第16回

「 音響とはなんだったのか 1」

どうも、お元気ですか?

今はサンフランシスコのアスフォデルのオフィスからです。これから、ここに2週間とまりこんで、ソロDVDの撮影と録音です。ここは初夏のような天気と気温で気持ちいいのですが、でも体のほうは相変わらずガタガタのままで、1月にぎっくり腰をやったばかりなのに、先週ウイーンからもどってきて再びぎっくり腰になってしまいました。で、そのまんまの腰でサンフランシスコへ。昨年の頚椎ヘルニアといい、もう本当に体のことを考えないとやばいっす。と自分なりに深刻に考えて8月中旬以降、年内の欧米の仕事は全てキャンセル、これから1年のうち4ヶ月以上は続けて日本にいることにしました。とはいえ8月まではもうキャンセルできない仕事がびっしり入っているので、なんとかだましだましでも乗りきらなくは…。

「聴く」の連載はアンケートの回を終え、いよいよ第一部のラストパートに突入にします。まだまだ練ってない原稿ですが、とりあえず第1稿ということで。


これまで3回にわたって、さまざまなミュージシャンがステージで何を聴いているかの回答を掲載してきた。ではわたしの場合はどうか。さんざん人に聞いておきながら、実は、これはとても難しい質問で、正直のところよくわからない。わからないからこそ皆に聞いてみようと思った…とも言える。

たとえば皆さんが会話をしているところを想像してほしい。このときいったい僕等は相手の何を聞いているのだろうか? 考えれば考えるほど難しい。相手の声を聞いているのは間違いない。でもそれは決して文字にできるような言語的な意味だけを聞き取っているのではない。たとえば、おなじ「こまるなあ」という発言でも、その中の声質やアクセントあるいは表情なんかの視覚的な要素を全てみながら、状況の前後関係や、それまでのその人との関係をみて、そうは言っているけど、結構喜んでるのか、あるいは、本当に迷惑なのかを人間は見分けられるようにできている。しかもそれはほぼ瞬時に、いちいち理屈で判断したりするのではなく、無意識にそういう判断をして会話をすすめているのが普通だろう。だからいざ、いったい会話をする際に何を聞いているのか…という問いを改めてしてみると難しい。もちろん、シンプルに「相手の声を聞いている」のは確かだけれど、それ以上に複雑なことを僕等は当たり前のように毎日こなしている。しかも意識せずに。

ステージの上で起こっていることは、厳密には言語を介した会話とは異なる。とはいえ、両者には類似点も沢山あって、特に即興演奏においては、会話と似たようなことが随所に起っているように思える。両者は、発音する者と、それを受け取る者の関係によって成り立つという点でそっくりだ。また音の規則性の解釈によってその関係が成り立つところも良く似ている。ただ会話と異なるのは、どこまでが音楽なのかというのが人によって様々だということだ。会話であれば、はっきりと言語といえるような共通言語コードを音声の中に見出しているけれど、こと音楽の場合は、共通と思われる音楽的な文化コードを持った者同士でさえ、この部分があいまいなうえに、共通した文化コードのない者同士でもコミュニケーションが言語以上に容易に成り立つ場合もあったりする。言い換えれば、言語が明らかに明確な意味を伝えることが出来るのに対して、音楽自体には明確な意味を伝える機能が(アフリカあたりの一部の音楽を除き)なくて、むしろ音楽は、そういった機能以前の、音そのものを伝えながら、もう少しプリミティブな感情なり、肉体的な衝動に直接かかわるような、なにかだとも言えそうだ。

単に聴くぶんにはどんな音楽でも容易に楽しめたりするが、ことそれを演奏する…ということになると話は別で、「聴く」を考えるときにも、単に楽しむ場合と同じにはかんがえられない側面も出てくる。おそらく多くの音楽家は、音楽をある規則をもった言語のような体系としてとらえてステージ上で音を聴いている。これが通常の音楽家のステージ上での無意識な態度であることは間違いないだろう。ある音楽には、どんな音楽でも、かならず文法なり作法ともいえるような法則や方法があって、それを学習しなければ演奏者としては参加出来ないからだ。が、前回までのアンケートをみてもわかるとおり、今現在、単純に音楽言語だけを聴いて音楽をやっている演奏家のほうが、わたしのまわりではむしろ少なかったりするのも事実だ。ここには、実は音楽の法則というものが言語と同じくらい多種多様で、言語同様、異なる法則から成り立つ異種の音楽が世界中には山のようにあることを僕等は知ってしまっている…という現実、さらに加えて、ある時代以降、とりわけサブカルチャーの勃興以降の音楽は、過去につくられた音楽言語体系だけから成り立っているわけではなく、様々な音響現象を音楽の一部として取り込んできていることが作用しているように思う。皆が同じ言葉を話しているとはかぎらない…という現実が、音楽の世界では、実生活以上に起っている上に、かならずしも共通の言語をもちいなくても、むしろ新しい音の肌触りがかえって何かを伝えるような文化の中で僕等は育ってきているのだ。

このことに最初に演奏家としてラディカルな態度を表明したのはデレク・ベイリーだ。彼の言うノンイディオマティック・インプロヴィゼーションとは、まさに、無意識にやりとりされる音楽言語を演奏者の側から相対化する試みだった。すでに歴史的に用意された音楽言語を使って演奏するのではなく、なるべくそうしたことを使わずに、これまで音楽言語になりえたようなものを禁じ手にまでして、徹底的に非言語的な即興演奏をしようとしたのが、彼の当初の目論見だったように思う。共通の音楽言語体系を使わずに演奏するためには、どうしても即興で毎回更新しつづけなくてはならなかった。即興の必然もそこにある。ところが彼のやっていることの本当の意味が理解される前に、非ジャス的な即興演奏の方法として、このノンイディオマティック・インプロヴィゼーションは流通、普及してしまった。この方法を使えばどんな音楽とも共演可能だ…という部分も作用して、ノンイディオマティック・インプロヴィゼーションは、閉じてしまったフリージャズの方法に対して、あらたな地平を見せてくれた一方で、コスモポリタン的な都市即興音楽のひとつの言語体系にすらなってしまった。問題なのは非ジャズ的に即興演奏することでもないし、フリージャズや現代音楽に対する新たな世界をつくるのが目的でもなかったはずだ。音楽家も演奏する際に言語をしゃべるように自分の音楽言語を話し、聴いているわけで、それは言語と同様に、自分の所属する民族なり、サークルなりの閉じた体系でしかなく、このことにもう少し自覚的になることで、音楽言語の体系によらない演奏が可能なのではないか…というのがベイリーの初心だったように思うからだ。だから彼があたらしい即興体系の発明者となり、その体系のようなものを演奏する人達が多数現れある世界が出来上がってしまった時点で、ベイリーの初心は挫折 したことになるように私には思えた。

わたしの身の回りで、この事態(ノンイディオマティックの出現と挫折)を最初にラディカルに意識した音楽家は、おそらく90年代後半の杉本拓や吉田アミ、Sachiko M等だったように思う。彼、彼女達の態度も、音楽が安易に言語的にやり取りされることへの強烈な異議のように、わたしには思えた。さほどベイリーの影響を受けていなかった、あるいはベイリーの挫折を発展的に継承したわけではない彼、彼女等がなぜこういう音楽に至ったのかは興味深いところだけれど、その辺の経緯はひとまず置いておく。が、なにより、わたしの興味をひいたのは、やはり彼、彼女達の音楽がベイリー以降のノンイディオムの問題に正面からかかわっているからだった。おりしも音響ブームの到来で彼、彼女等の音楽を、その範疇でとらえるような傾向もあって(なにより、わたしもこの「音響」という言葉を結果的にみれば利用してまった戦犯でもある)、彼、彼女等の名前はまたたく間に「ONKYO」の言葉とともに欧米に発信されたが、しかし、杉本や吉田アミ、Sachiko M等のやっていたことは、日本の音響ブームとはほとんど無関係な音楽だったのではないだろうか。多くの「音響」と呼ばれる音楽が耳やさしいこれまでにないテイストの音色をベースにしたものをさしたのに対して、彼、彼女等の音楽は明らかにそれとは次元のことなるものであったし、なによりまず何かをベースにするという概念がその音楽にはそもそもない。ここで言うベースは音程のことではない。ある音楽の中心点となるような構造のことで、たとえばそれがコードであったり、リズムであったり、メロディであったり、あるいは音色であってもいい。おそらく「音響」と呼ばれた音楽の多くはこの「音色」を他の要素よりもより中心に置いた音楽のことだったように思う。その部分の新しさは確かにあったし、素敵な音楽が多くあったのも事実だけれど、この、ある中心点を設定して、それをもとに音楽を構成していく、というような方法…そもそも音楽のほとんどはそういうもので出来ている…をベースと呼ぶとして、そもそも杉本達の音楽には、ベースの上になにかが乗っかる、ある中心を設定してなにかを構築していく…というような構造がないか、きわめて希薄だ。それでも音楽である以上時間軸にそった音の変化、あるいは変化のしなさで成り立ってはいる。が、そこで生まれるストラクチャーに大きな意味がそもそもないような音楽、あるいはストラクチャーがあったとしても認識しにくすぎてそれが意味をもってないような音楽を、彼、彼女達は最大限の注意をはらいながら演奏しているのだ。だからそもそも通常の音楽が持つ規則性が希薄で、聴き手が規則性をさぐることにも大きな意味がない。時間経過というよりは、定常的な音による空間的なデザインの側面もとりわけSachiko Mの音楽にはあったりして、これもベースというよりは、ある状態を作っているだけと考えたほうがいい(彼女が現在インスタレーションに向かうのは必然のように思う)。いずれにしろ彼、彼女等のやろうとしたことはベイリーのノンイディオムの方法からもう一歩ふみだして、ではいったい人間はなぜ、どうやって音楽を認識してしまうのか…という聴き手の存在まで掘り下げての異議提出であったように思う。ベイリーがあくまでも、それを演奏によって解決しようとしたのに対して、演奏と同時にそれが聴かれることによっておこる様々な出来事に対してもより意識的になったのが、そのなによりの証拠だろう。

音楽は演奏されることによって生まれるのではなく、どんな音であろうとそれを聴く人が音楽だと感じてしまった時点で音楽になる…というところが出発点の挑戦。この部分が演奏者の側の言語更新で新しい方法を探究してきた従来の欧州の即興演奏と、彼、彼女等の最大の違いだったように思う。流行の「音響」と呼ばれる音楽がリスニングに重点を置いていた点で、この部分では確かに共通した傾向をもっていたのも事実だ。だが、やはりその本質的な音楽の成り立ち方において従来の音楽構造をそのまま流用しつつ音色の更新に重点を置いていた「音響」の音楽と、彼等のやっていたことは明らかに違う。中村としまるや秋山徹次等も含む彼、彼女等のこの数年の試みとその進化にはそんな側面もあったように思う。だからこそ、杉本拓とラドゥ・マルファッティの共演では、あまりの無音部分の多さに空調の音なのか、演奏の音なのかわからなくなるような事態がおこったり、Sachiko Mの音楽では、耳を澄ませば澄ますほど音楽として発せられた以外の音が陰画のように浮き出てしまう事態までおこったりする。どこまでが音楽かということは、演奏する側ではなく、聴く側の判断にまかされている音楽…あるいは、どこまでが音楽か、という問い自体に違和感を感じさせてしまう音楽。私にとって彼、彼女等の最大の新しさと面白さはそこにある。

この稿つづく。


Last updated: March 22, 2004