Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第21回

最近すっかりはてなダイアリーの日記のほうにはまっていて、こちらをご無沙汰しちゃってます。皆さん、お元気でしたか。え〜と、今回は今年の夏の飴屋法水の展示の際におこったサイドストーリーともいえる「君が代」の問題を。


消失と君が代 1回

「音の良し悪し」話をつづける予定でしたが、この夏、自分の音楽人生にとってひとつの転機にすらなるような、様々な事件に出くわしたので、まずは、そのことに落とし前をつけてから、音の話に進みたいと思います。そんなわけで、今回と次回、もしかして次々回は「君が代」にまつわる話を。

7月29日から8月21日まで、六本木のアートギャラリーP-Houseで飴屋法水10年ぶりの個展になる「ア ヤ   ズ、バ  ング  ント展」がひらかれました。展示を飴屋さん、会場の壁一面にかかげられたテクストを椹木野衣、そして会場の音をわたしが担当、作家自身が暗箱に24日間も入っているというショッキングな展示であったこともあり、ほとんど宣伝もしなかったにもかかわらず、この話題はまたまたくまにネットや口コミでひろがり、最終的には非常に意味のある展示となったのですが、これについては、わたしや飴屋さん本人がネットでかなりの量の文章を書き、また椹木さんが、いずれなんらかのメディアで文章を発表すると思いますので、ここでは、その展示の内容ではなく、これにまつわる、ある意味、この展示ともシンクロする、もうひとつの出来事について書きたいと思います。

今回の展示のテーマは「消失」で、バニシングポイントが「バ  ング  ント」に、飴屋法水が「ア  ヤ   ズ」になるといった具合に、展示でも様々なものが消失しています。作家自身が箱の中に消失し、会場の壁一面に書き出された椹木さんのテクストも文字が沢山欠落しています。その欠落した文字の部分にはヘッドフォンのジャックが付いているのですが、会場におかれたヘッドフォンにはこのジャックに差し込む線がついていません。それでもこのヘッドフォンには不思議な仕掛けがしてあって、ヘッド フォンをしたひとがその手でジャックに触れるとヘッドフォンから音が出る仕組みになっています。2つのジャックにさわれば別々な音がミックスされることもあるし、干渉しあってバグになってしまうこともあります。ヘッドフォンをしている人に触れると、その人が聴いている音を聴くこともできたりします。このヘッドフォンから流れる音がわたしの作品「 ミ ヨ」でした。

この「 ミ ヨ」は「君が代」のことです。24チャンネルあるこの作品の音は、かつて「君が代」が国歌ではなく、雅楽の一作品であった頃の「君が代」のハーモニーの部分のみをモチーフにした作品です。つまりは「君が代」のメロディを消失させて、その伴奏部分を25分程度にいくつものバリエーションで拡張したうえに、サイン波を加えたり、リングモジュレーターを通したり、あるいはバグのような音を加えて出来上がっています。ただし、この作品はコンサートの作品のように、何十分間か通して聴くのではなく、不可思議なヘッドフォンを使って途切れ途切れに、ランダムに聴かざるを得ないような設定になっています。

なんでこんな作品をつくったのか。これには2つ直接の理由があります。ひとつはもちろん飴屋さんから消失をテーマにした音をつくってほしいという依頼があたからです。飴屋さんがわたしに声をかけたのは、わたしがかつてGround-Zeroというバンドを90年代にやっていたことに関係あります。わたしはこのバンドを98年に消滅させましたが、でも、いつのまにかGround-Zeroという言葉は、わたしのバンドのことではなく、21世紀を象徴するような出来事を表す言葉として世の中に流通し出しました。今回彼が消失に こだわったのは、9.11以降の世界のリアリティを正面から受けてのことだと思います。ほとんどの表現者が、このリアリティを前に絶望を味わっているときに、彼はあえて、まるで負けることがわかっているような正面攻撃を始めたようにみえました。でも、彼に声をかけられたとき、わたしはなぜか、非常に素直に、ほとんど迷うことなく、この愚直さに付き合おうときめてしまいました。わたしはなにかが消失している…というテーマの音の作品を作ることに決めました。

このときに、もうひとつ別の事件がおきます。この事件は、偶然の切っ掛けで、学生時代のバンド仲間のOさんに25年ぶりに会うことから始まりました。Oさんは大学を出たあと高校の先生になりました。学生時代から非常におっとりとした人で、いつものんびりとニコニコしている…というのが、わたしの中のOさんの記憶です。そのOさんが、高校で「君が代」の伴奏を拒否して、処分を受け、希望しない高校に飛ばされた、見せしめの人事をされたというのです。

「え?」

わたしの最初の反応は、まずは「?」でした。あのおだやかなOさんが「伴奏拒否」といったような、強烈な決断をしたことへの驚きとともに、そもそも今の世の中で、音楽を強制するような現場があるんだな…という驚き。おまけに、処罰や見せしめ人事のような、なかは職場にいるものにとっては「暴力」とでもいえそうな強権を使ってまで、そういうことをやらせようとしている人たちがいるんだという驚き。だいたい国歌を強制的に歌わせる…というのは、戦前の日本とか、革命下の中国とかの全体国家のような国がやることだと思っていたので、まずはそういうことが石原都知事になって以降の東京都では、普通におこっているんだなということに驚いたわけです。確かに前々から君が代のことで、学校がもめていたのは新聞でかすかに知っていましたが、でも、それはバリバリの左翼教師と、歴史教科書をどうにかしたい右翼の政治家達とのもめごとくらいに思っていたので、まさかOさんみたいな、ニュートラルかつおだやかな人が渦中にいるなんて思ってもみなかったのです。歴史教科書問題のほうも、いつのまにか反対する人すらなく偏向しているといわれているものが採択されている…みたいなニュースが流れているし。

で、この話を聴いたときに、わたしはなぜかOさんが拒否をした「君が代」の伴奏だけを使って作品をつくろうと思いました。それはOさんに圧力をかける国家権力のようなものへの対抗とか、あるいは、そういった人たちが起こしている裁判を支援しようとか、そ ういう気持ちではありませんでした。かといって、国歌を大切に思って歌いたい…と思っている人への応援でもありません。またアンチでもありません。ただ、たかが音列なり音色なりの組み合わせでできているもの、全ての音楽同様たかだかそれだけで出来ているものが、歴史とか、国家とか、学校の現場とか、戦争とか、靖国とか、石原都知事とか、教育委員会とか、そういった音列や音色とはまったく関係のないパワーバランスの中で、様々な、過剰ともいえる意味を持って、人の人生までをも左右しているってことへの、私個人の素朴な違和感のようなものを正面から作品にしてもいいだろう…と思ったのです。

箱から出てきた飴屋さんがわたしに質問をしました。

「大友さんは、君が代って音楽としては好きなの? 嫌いなの?」

一瞬とまどったあと、でもかなりの確信をもってこう答えました。

「結構好きかも知れないね」

わたしは、この風変わりな音楽を、もしもなんの歴史的なコンテクストと関係なく聴くことが出来たら、かなり好みの音楽だなと思うのです。ただし、現実には、歴史的なコンテクストから「君が代」が「君が代」のままで逃れるには、あまりにも、濃厚なモノがこびりつきすぎている。だから、今回のこの話は、好き嫌いといった単純な答えだけに、結果が求められるような話でもありません。「君が代」をはさんで、飴屋さんの展示と、友人Oさんとの間でおこったひと夏の出来事、ここまではまだイントロダクションです。さてさて、このさきどうなりますかは次回のお楽しみ…というか、正確には、わたしは、まだこの話、事件の渦中にいるので、どうなるかは、わたしにも分からないのです。

つづく。


Last updated: September 11, 2005