Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第24回

消失と君が代 4回

たかだかシンプルな数個の音列にすぎない「君が代」に、とてもここには書ききれないくらいの政治的な意味がこびりついているってのは、どういうことなんだろう。たかだた数個の音列…と書きましたが、もしかしたら、たかだか数個の音列だからこそ政治的な意味ももびりつきやすいのかもしれません。これが例えば12音技法で書かれた複雑な音列とハーモニーをもっていたら、絶対に政治的な意味なんってもたなかったでしょう。この場合、シンプルさは重要です。現在の「君が代」のアレンジはユニゾンのシンプルなメロディに始まり、少しづつハーモニーが増し、ドラム他多数の楽器が加わってさんざん盛り上げたところで再びユニゾンで終息するという構造をもっています。これって、なんてことはない、わたしがONJQでよく演奏していた「ユリイカ」の構造とほとんど同じです。「ユリイカ」の場合は、シンプルにメロディを提示して、それがユニゾンで延々繰り返される中で、フリー的なビートと複雑な倍音を含むノイズが重なり合っていく。大雑把に言えばほとんど同じです。

恐ろしいことに、幸か不幸か、人間はシンプルなメロディのユニゾン、あるいはシンプルなビートの繰り返し、または複雑な倍音が絡み合うドローンの中で、気分が高揚して興奮したりトランスしていくという、そういう身体性を最初からもっています。理由はわかりません。恐らく、それは後天的な教育によるものではなくただそういう身体に最初からデザインされているように思えます。その証拠に、あらゆる民族のあらゆる儀式で使われる音楽が、必ずそういう要素をもっています。シンプルな音列がリフレインされ、そこに重厚なアレンジが施されたり打楽器によるビートなり音圧が加わったり、あるいはドローンが延々と施されることで、トランスはより強固なものになっていきます。このあたりは雅楽だろうがテクノだろうが、西洋オペラだろうが同じです。「君が代」は、短い中に上記の要素をしっかり含んでいます。その上ゆるやかにランディングする安定した着地点も備えていて、身体を高揚させるためのシンプルな音楽構造がちゃんとそなわっています。「君が代」を否定する動きの中に、その音楽的な欠陥や、雅楽を西洋音楽の中に置き換えた際の調性の間違いなどをあげて、否定の理由にしている文章もみかけますが、そもそも数学のように答えがひとつのものとちがって、音楽を正誤で判断するのには無理があるし、好き嫌いとか、芸術性のような、人によって判断の異なるものを論拠にしても、あまり説得力ないなと正直思ってしまいます。むしろ、西洋音楽や雅楽を基準にした和声上の齟齬の問題などよりも、多くの人類が普遍的に共有している上記のような音楽構造を基準に考えれば、「君が代」は、どこにでもころがっているよくある音楽です。この手の構造の音楽など、世の中にそれこそ掃いて捨てるほど沢山あって、別に特別でもなんでもないなと。わたしがやっている「ユリイカ」にしろ、アルバート・アイラーのアルバム『ラブクライ』にしろ、マイルスだろうが、ベートーベンだろうが、ROVOにしても、元ちとせにしても、大雑把にはこうした構造の音楽には違いなくて、だいたい世の中のほとんどの音楽は、こういうものでしかありません。ただ、もし、「君が代」と他の音楽の違いを探すとしたら、「ユリイカ」にはジム・オルークの曲で、青山真治が映画音楽として使ったり、わたしがカバーしているという程度のささやかな歴史的意味しかないし、アイラーにしても黒人解放の象徴的な意味こそあれ、その音楽自体で血が流れたわけではないのに対して、「君が代」のほうは、国歌として機能しだして以降は、政治権力者によって承認されてきたという濃厚な歴史がこびりついている上に、その中で、自民族、他民族を含め沢山の血が流れている…という差。要は、音楽的な差がそうさせているのではなく、その音楽が置かれてきた状況と、その状況とこのメロディを知っている人たちの集団によって、初めて「君が代」に濃厚な意味がついているにすぎません。アマゾンで暮す人にとっては、「君が代」が流れたところで異国の暗い音楽、くらいの意味しかもたないはずで、要は、音楽を歴史的文脈の中で読み取るのは、その音楽が機能する集団の中で、そういう教育を受けてきた人たちに限られるわけです。一度ある音楽が歴史的なコンテクストの中に置かれていることを意識してしまうと、人間というものは、なかなかその音楽の音そのものを聴くことができません。わたしにとっても「君が代」は国歌以外のなにものでもなく、たとえば、通常それが流れるときに、冒頭の微細な弦のユニゾンのテクスチャーとか後半部分の大太鼓の音色なんかを丁寧のに聴きとることなど、よほど意識を集中しないとできません。つまりは音を聴いているのではなく、わたしは言語の意味を理解するようにこの音楽を聴いているのです。

僕ら音楽家は、この音列にこびりついた歴史性のようなものに、抗う術も、それをつくりだす術も知りません。なぜなら音楽にこびりつく歴史性というのは、個人の仕事でなしえるものではなく、ある集団の中で、ある状況に置かれた音列が、モノが発酵するように時間をかけて、歴史的意味をもつからです。したがって「君が代」を歴史から開放する、あるいは消去するというのは、そもそも、いくら誰かが主張してもできるものではありません。それは音楽の側だけの問題ではないからです。

ここで、やっとわたしが飴屋法水の展覧会「バ  ング  ント展」のために作った「 ミ ヨ」や「ギ ‐ ロ」の話にもどります。この作品には「君が代」メロディがありません。飴屋法水の提示したコンセプトにしたがって、わたしはまずは国歌からメロディを消去しました。メロディがなくなった上に、たとえば、この音楽を伴奏している従来の西洋のオーケストラではなく、本来の雅楽の伴奏をだけをつけるとどうなるか。もう、わたしにはそれが「君が代」であることすらわからなくなります。これが「 ミ ヨ」の基本コンセプト。もう一方の「ギ ‐ ロ」は、「君が代」のメロディの音ひとつひとつに、西洋の従来の機能和声ではなく、単にその音を含むことが可能であれば、前後を考えずどんな和声をつけてもいい…というのを基本にした、即興演奏のためのピースです。これも、まったく「君が代」とは縁もゆかりもない、和声が間欠的に響いては消えていくにだけに聞こえます。これを、なんの説明もせずに演奏すれば、それは、ただのアブストラクトな音楽になるだけです。ですからあえて、わたしは、この音楽が「君が代」のメロディを消去した伴奏のみをもとにつくったということを事前に聴衆に知らせました。聴衆は嫌がおうでも、「君が代」という歴史的コンテクストの中で、わたしの作品を聴かなくてはならなくなります。なのに予想以上に「君が代」の痕跡は聴きとれません。聞こえてくるのは、「君が代」とは似ても似つかない別の響きの音だけです。ここまでしないと、わたしには「君が代」が従来もっていた響きを聴くことはできないのです。正確には、従来もっていた響きではなく、「君が代」が持ちえたかもしれない響きたちと言ったほうがいいかもしれません。そのくらい音楽のもつ歴史的な意味合いというのは強固に、聴取そのものにも影響をおよぼす…という風にわたしは考えています。なんの意味もない、ただの響きとして、日本語の会話を聴きとるのが、僕らには不可能なように、いったん意味のついてしまった音列や音色、リズムを、ただの裸の音として聴くことは、僕らには決してできないのです。そして、この聴取そのものに影響を及ぼすような音楽に付随した意味性こそが、実は人を高揚させたり、トランスさせたり、幸せにしたり、泣かせたりする音楽の正体でもあるとわたしは、実は考えています。無論、意味だけで人は感動はしません。この意味性を強固にするのが音楽のもつ響きの美しさとか、声の素晴らしさといったような、決して音楽理論書では解き明かすことのできない部分で、この部分には、実は裸の音の響きのようなものが深く関わっていると、わたしは考えています。大部分の音楽は音の響きと意味性の共犯関係によって成り立ってきた、そんな感じがしています。その意味では国歌が人を高揚させることも、オペラに感動することも、そしてフリージャズに熱狂することだって、テクノでトランスすることも、ほとんど同じものだと思っています。ただ置かれているコンテクストが違うだけで、そこにある、人間のある感情や身体を高揚させるメカニズムは多分同じものです。本当にそういうものの対極、あるいは、そういうものをできる限り消去した音楽をやろうとするなら、たとえば音楽から起承転結も、解決する和声も、リズムの中心もなくして、ひたすら中心点のない和声やリズムを演奏し続ける初期のデレク・ベイリーのような即興演奏をするか、あるいは和声やリズムを含む音楽的な構造を極限まで消去して、あるミニマルな音のオンオフのみに還元するSachiko Mや杉本拓がやりつづけているような音楽をやるかしかないでしょう。わたしが彼らの音楽が大好きで、かつ非常に高く評価しているのは、それゆえ…という部分もあります。「 ミ ヨ」の中で笙の石川高に従来の「君が代」のように単音から始まり、徐々に和声が豊かになり最後にまた単音になる構成を持たせたのは、「君が代」を含むどこにでもあるような従来の音楽構造を、痕跡として残しておきたかったからです。その一方でSachiko Mは、音楽的な構成といえるような構造はほぼもたないサイン波の単音を演奏してもらっています。両者のやっていることは、音楽的にはほぼ無関係です。しかし一点のみ、笙の出だしの音程とサイン波の音程のみを一致さてています。これによって双方の周波数が互い干渉しあって、音は万華鏡のように様々な揺らぎを見せます。2つ以上の根本的に異なる音楽が同時に存在して、それがアンサンブルしているように聞こえる。これは今のわたしにとっては非常に大きなテーマです。どちらかを否定するのではなく、従来のままでいるのでもなく、かといって無理に共演して新しいものをつくろうなどと野心的になるのでもなく、ひとつの原理だけに支配されることもなく、ゆるやかに存在していて、かつ聴いている人によっては、まったく聞こえ方や意味が異なるような音楽。そんな夢のような音楽は、まだどこにも存在していません。でも、可能性をさぐる必要は絶対にあるだろう、そうわたしは思っています。

再び国歌の話にもどります。わたしは国歌の存在そのものは否定はしません。でも、国歌を歌うことを強制することには反対します。歌い方を強制することにも反対します。国歌は自主的に歌いたい人が自由に歌えばいいもので、それを暴力によって強制するというのは、戦前の日本とか、北朝鮮のような全体主義国家がすることだ思うからです。その意味で、国歌の伴奏を拒否した先生たちを異動(いわゆる飛ばすってやつで)という暴力を使って罰するのは、あきらかに間違っていると思います。彼らは、生徒たちに「君が代」を歌わないように強制したわけではなく、ただ静かに、ピアノ伴奏を生徒たちに見えないところで拒否しただけです。彼らがピアノ伴奏をしなくても、オーケストラのカラオケを使って国歌斉唱はできるわけですから、そう考えると、伴奏拒否者を罰するというのは、あきらかに「踏み絵」的な意味しかもちません。21世紀に「踏み絵」なんてものがあっていいのでしょうか? そうした暴力には断固反対します。

ある歴史を帯びた音楽というのは、場合によっては、その音楽がもつ濃厚な意味性によって、自身が高揚するようになれる人もいると同時に、負の意味、その音楽を聴くと非常に不愉快になる人たち、集団があるかもしれないことを、念頭に置くべきで、その意味で、仮に、その音楽が好きであっても、演奏したり歌うことに配慮をすべき…というのが多民族、多宗教、多言語社会に生きている人間のマナーだろうとわたしは思っています。音楽なんて歌いたい人がマナーと節度を持って歌えばいいじゃないですか。国歌にしろ校歌にしろ、あるいは学校の授業で歌う歌にしても、歌う自由もなるなら、歌わない自由だってある…、少なくとも強制して歌わすようなものではないし、その音楽を聴いて不愉快になる人がいるというなら、そういう人たちの前では歌わなければいい。音楽なんてそんな程度のゆるいものでいいって、わたしは切実に思っています。

「聴く」の連載は今回をもってしばらくお休みします。

大友良英


Last updated: December 30, 2005