Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第6回

Filamentのコンサートでバルセロナに来ています。ここは2年前のソナー・フェス以来。ホテルで早々にエヴァン・パーカーやマッツ・グスタフソンに会いました。彼らは今日これからバリー・ガイ・アンサンブルで演奏します。僕らは明日。明後日はジョン・ティルバリーによるモートン・フェルドマン作品の演奏で、今から楽しみにしています。そうそう、そのジョンとSachiko Mなんかがやった演奏がもうじきケルンのグローブ・レーベルから出るはずで、ちゃらっと聴きましたが、なかなかの名盤です。さて今回は「聴く」の6回目です。


「音を認識する?」

普通僕らが聴くことに意識的になろうとすると、大抵問題にするのは集中して聴くことだったりする。通常以上に意識を研ぎ澄まして、ある音に集中したり、遠くのかすかな音に焦点を当てて聴き取ったり、可聴域ぎりぎりの低周波や高周波を聴き取ったりって具合に。無論こういう訓練をしたり、訓練までいかなくても日常的に聴くことに意識的になるようにしていると、この手の集中して聴く能力は、思ったより結構簡単にアップする。ちょっと集中すれば、ほとんど音なんてないと思っていたあなたの部屋に、実は沢山の音が溢れていることに容易に気付くことだろう。人間には本来意識的にあ る音に強力なフォーカスを当ててクローズアップする能力が備わっ ている。

前回この連載で触れた高橋悠治さんのワークショップがわたしにとって画期的だったのは、この意識的な集中した聴取とはまったく間逆の、むしろ意識を集中しない聴取をやったことにある。だいたい僕らの世代はなんでもそうだけれど、頑張ることで結果が得られるのだと無意識のレベルで思ってしまうところがあって、なにかをよりよく聴き取るとしたら頑張って集中すべきだと、なんの疑問もなく思ってしまいがちだ。ところがこれが大きな落とし穴で、集中して聴くことで聞こえる音と、逆に集中することで聞こえなくなる音があるのだ。集中して聴くという行為には、聴いた物をあるまとまった意味として認識して、他の音とは強烈かつ強引に区別してカテゴライズしてしまうという脳内の行為と切っても切り離せない関係にある。この脳内音響識別認識ソフトのようなものが駆動しだすと、一度認識された枠組みを外すのは大変難しくなる。ある音を意味として認識したとたんに、その音そのものを聴いているのではなく、あるまとまった意味のほうに音そのもより力点が移る…とでもいったらいいだろうか。悠治さんがやった、ぼや〜んと聴くという訓練は、これとはまったく逆の、なるべく音から意味を発見しないように、あるいは音の背景にあるまとまった何かを見つけてしまわないように、脳内音響識別認識ソフトの駆動を阻止したりコントロールしたりする訓練に他ならない。このソフトが駆動しないことによって、僕等は、意味や認識から逆算して聴いたことにしていた音が、実は非常に荒っぽく強引に音と音の境界にボーダーをひいて、あいまいな音を聴かなかったことにしたり、実際に聞こえている音とは異なる音響地図を脳内で作っていたのだということに気付くことになる。

前回のステージにおける演奏とサイン波の話にもどそう。演奏家Aは非常に優れたミュージシャンで無論耳も良い。ところが、彼はステージで6〜10KHzの高周波のサイン波が鳴っていることに気付いていなかったという話だ。前の話に照らし合わせると、彼はステージにおいて、脳内音響識別認識ソフトを駆動して音楽語法の範囲内の音の みのを認識して演奏していたことになる。つまりは、語法とは関係のない音の存在を無意識のうちに退けていたのだ。なんて偏狭な…などと思ってはいけない。これは僕等が日常やっている当たり前の行為、つまりは誰かと会話するときに当たり前のようにやっている行為なのだ。相手の話を意味として認識するためには、この脳内音響識別認識ソフトの中でも特に強力な識別能力を持つ言語認識ソフトとでも言えそうなものの駆動が必要で、このソフトが動き出すと、言語として認識出来る音とそうでない音とを強烈に差別化し、しかも言語として認識される音のほうを純粋に音としては認識できないくらいにまで、特別あつかいするようなのだ。さわがしい喫茶店でも相手の声がはっきり聞こえるのはそのためだ。あるいは、仮に何かの事情で会話の中のある部分が他の音に邪魔をされて実際には聞こえていなかったとしても、それが瞬間的なものであれば、僕らはあたかもその部分が聞こえていたかのように無意識のうちに感じてしまう、というか勝手に修復してしまう。現実の音と僕らが聴いている音は実はかなり異なるのだ。演奏家Aはおそらく演奏する際にこの言語認識ソフトのようなものを駆動して音楽を解釈していたはずで、そうすると彼が音楽言語と認識したもの以外の音は、彼には音楽として認識されなくなる。多分そういう原理で、彼はサイン波の存在に気付かなかったのだ。実際に鳴っている音群=ノイズの海のなかから僕らが認識化できることなんて、実はわずかでしかなかったりするのだ。それどころか、このノイズの海に無いものすら僕らは聴い ている可能性すらある。

ビル・エヴァンスやソニー・ロリンズあたりの50年代や60年代のジャズの有名なライヴ録音を聴くと、だれでも最初に気付くのはカチャカチャいうグラスの音やら客の話声のはずだ。それもかすかな音量ではなく、ピアノと同じくらいの音量ではいっている部分すらある。この音がスタジオとは異なる空気感をだしていて、いかにもライヴという感じに貢献しているわけだけれど、今から考えると、よくもまあ、あんなざわついた中で、あれだけ緊張感ある名演が出来たもんだと思うくらいだ。無論演奏家たちは、この客席のノイズを音楽の要素とは思っていないはずで、それらを無視して演奏に集中しているわけだ。サイン波を無いものとしていた演奏家のAのように。ところが一旦録音されてしまい、全ての音が等価にレコード盤に刻まれ、それをオーディオで繰り返し再生するようになると意味はおのずと変わってくる。多分聴きなれたリスナーならあのグラスの音がなくなると、もの足りなさを感じるのではないか。いつのまにか無意識のレベルで、グラスのノイズもリスナーにとっては音楽の重要な要素になっていたのだ。これは何度も繰り返し同じ音源を聴くことで、いつもは無意識に排除していたものが意識化されてきたと見れないだろうか。さらに言えば、レコードのすれる針音も同じように音楽の要素になりえる。僕等の世代は初めてCDを聴いた時、独特のハイファイさを感じるとともに針音のない寂しさも感じたはずだ。とはいえ、その針音やグラスの音は音楽を聴いているときには、いちいちエヴァンスのピアノの音を認識するようには聴いていなかったはずだ。無くなってみて初めてわかるような存在の仕方。意識的に聴いてはいないのに、その音があることで、聴いているほうの音が逆に浮かびあがるような音の存在。本来音楽の要素ではないものが音楽の要素として溶け出す瞬間。音楽と背景のノイズのボーダーが決壊しだす瞬間。

僕らは多分間違い無く、なにかを聴く際にこの認識の仕方を様々に設定変更して状況に応じた聴取を行っている。Aにしても静かな楽屋でサイン波が流れ出せば即座に気付くはずだ。たとえば会話の際に一旦言語認識ソフトが動き出すと、言語以外の音の意味や存在にいちいち気を取られなくなるように、音楽を演奏する際にも背景のノイズのようなものはいちいち問題にしないように脳が動き出してしまう。しかし、それは聞こえていない、というのとは少し違う。人間は認識して意識化したことしか情報を受け取っていないのではない。意識していなくても針音やグラスの音を耳や体が覚えていたように、実は意識してない部分でも五感とそれにまつわるなんらかのソフトは起動しているのだ。Aがサイン波の存在に気付く以前から、サイン波が流れると彼の演奏が変わったのはそのためだ。逆に彼がサイン波に気付いてしまった以降は、おそらく彼はこの音を音楽言語として認識し出したはずで、そのことが良かったのかどうか、微妙なところだとわたしは思っている。

認識される部分だけが全てではない。認識とは別の聴取を人間は行っている。この部分を見つめることで見えてくる何か。これはノイズや聴取を考えるにあたって切っても切れない関係にあるし、ここ数年わたしが面白いと思っている音楽の全てはこのあたりのことに引っかかってくる。杉本拓やSachiko Mにわたしが驚いたのは、彼らはある時期以降、明らかにこの認識ソフトのようなものを起動するしないということに意識的になっていったことで、彼らに新しさのようなものがあるとしたら、その本質は音楽認識に関わるなにかにあるとわたしは思っている(注)。これを取り違えると、いわゆる「音響」と呼ばれる音楽を、空間を多様した音の懐石みたいな解釈になったり、音そのもに焦点をあてた「語法」みたいに表面的な解釈で終ってしまうことになるだろう。このあたりは今のわたしには、具体的に言うのは極めて難しい。それでも、このあたりがとにかくわたしの興味をくすぐるのだ。人間は自分が認識している以上のことをしていて、つまりは認識で全てをコントロールしているわけではなく、意識によって自分を把握することなんて不可能だという大げさな話にもなってくるのだけれど、この認識外聴取のようなものは、自分の立ち位置や存在、意識下の意志決定や次の行動をする上で非常に重要な役目をになっているとすら思えるのだ。ぼや〜んとするなかから見えてくる何か。集中や認識力だけでは解決できない何か。意識していなくても感じている何か。この辺を次回から映画の効果音なんかを参考に考えてみようと思う。

(注)さらにこのあたりを意識的にあるいは無意識かもしれないが、推し進めているのはアネッタ・クレプスと吉田アミで、彼女達が今年出したソロCDはどちらも素晴らしかった。また、このラインでわたしは宇波拓や江崎将史の今後の動きにも注目している。


Last updated: December 21, 2002