Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記別冊 連載「聴く」第7回

あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。そう、新年なんですよね〜。なんだか今年は暮れも正月もなく、ずっと録音をしていて恒例の友人宅のなべも今年は飛ばしてしまって…とほほ。新年の実感は唯一正月のテレビくらいかな。合間にTV見ながら今更、今年こそモーニング娘の名前を全員言えるようにしようと一瞬思ったのですが、それこそ3日坊主で…(苦笑)。え〜と、録音のほうは、ONJQ + OEをスタジオで録りつつ、自宅ではアーリー・ワークス、ギュンター・ミュラーとのDUO、マルタン・テトロとのDUOという3枚のアルバムを編集しながら、黒沢清監督のBSハイヴィジョン作品のサントラと、こなかりゅうさんのバックトラックを録音、で、どれもまだ終わってませ〜ん。あ〜時間がない〜。趣味の原稿書いてる場合じゃないっつうに、もう、このボケが…。とはいえ録音のいほうはどれもこれも、驚くくらいアイディアが出て来るので面白くはあるのですが、でも完全にオーバーワークで体がね〜。こうなるとむしろライヴがいい息抜きになってるくらいで…。手抜いてるってことじゃないですよ、人と会えて打ち上げがあるって点で、もういい息抜きっす。そんなわけでまずはライヴの案内を。

1月20日(月)
明大前キッド・アイラック・アートホール 電話:03-3322-5564
『大友良英プレゼンツ・ニューミュージック・コンファレンス Vol. 3 』
大友良英(ターンテーブル)、中尾勘二(楽器未定)デュオ
宇波拓(エレクトロニクス)、杉本拓(ギター)、江崎将史(トランペット)トリオ
Sachiko M(コンタクト・マイク)ソロ
大友良英(パーカッション)ソロ

個人的には中尾さんとの初共演と欧州珍道中後の宇波、江崎の演奏を聴くのを非常に楽しみにしています(あ、正確には中尾さんとは、大昔、千野秀一さんのNHKの仕事でコンポステラや、わたしがはいったライヴ収録があったのですが、昔すぎてほとんど覚えていません…苦笑、なんで実質初共演ってことで)。

では今回は別冊連載「聴く」の7回目、今回はラドゥ・マルファッティと杉本拓についてです。


ラドゥ・マルファッティ、杉本拓との共演

12月10日、六本木に新しくできたスペース「スーパー・デラックス」で、トロンボーンのラドゥ・マルファッティ、ギターの杉本拓の二人と共演した。今回からは映画の効果音を参照しつつ話を進める予定だったが、この時の共演での出来事があまりにも印象的だったので、この話を先にしたいと思う。

この共演の1が月前、わたしはオーストリアでラドゥの演奏を聴く機会があった。共演はターンテーブルのdieb13。その時の経験を言葉にしてしまえば、約1時間の演奏中、音が聞こえてきたのは数える程度で、しかもそのほとんどは息の音とトロンボーンの音の中間のような超弱音に、かすかなターンテーブルのヒス・ノイズのような音で…といった具合に簡単に説明できてしまうのだけれど、そんな説明では、そこで起こった出来 事をほとんどまったく何も説明していないに等しい。確かにステージで起こっていたのはそれだけなのだけれど、問題はこの極端にミニマルな演奏会の中にいてわたし自身に起こった出来事のほうなのだ。

この手のコンサートに出くわすとまず起こるのは、耳が神経質なくらい敏感に開くことで、最初はちょっとした客席の椅子の音やら洋服のすれる音、外の車の音なんかも非常に気になったりするのだけれど、ある時間、恐らくは2〜30分くらいを超えたあたりから、そういう演奏以外のノイズも含めて、音と音の境界がぼやけて、ある種、ありとあらゆる音が溶けたような独特の体験を耳がしだすのだ。こうなってくると俄然面白くなってくる。ネガとポジの反転に例えればいいのだろうか。演奏と演奏以外の音の関係では確かにそういう理屈になるのだけれど、感覚的には2つの同じような平面写真を遠近感をずらして見ることで立体のように見える錯覚が起こる立体視の感覚に近い。音の遠近感がぼやけてきて、それがトローンボーンの音も、車の通過音も、ほとんど同じような距離感というか、浮遊した感じになってくるのだ。これはちょうどこの連載で触れた高橋悠治さんのワークショップで経験した、あの「音が溶け出す」現象に極めて近い。唯一の違いは、日常の音だけではなく、演奏によって起こった音がそこに介在していることと、コンサートという場でそれが起こっていることだ。

コンサートでこの種の体験をしたのはこれが初めてというわけではない。ジョン・ティルバリーがモートン・フェルドマンの曲を演奏するときや、Sachiko Mのソロ、それに杉本拓の作品でも何度かこの経験をしている。その上に悠治さんのワークショップでの体験。こうした経験がなかったら、もしかしたら、わたしはラドゥのコンサートを見て面白がれなかったかもしれない。演奏を聴いているのか環境音を聴いているのか、その境界すらあいまいで、ぼや〜んと全体を楽しむような、ある種サイケデリックなトリップ感。Sachiko Mやジョン・ティルバリーがサイン波やピアノの長い余韻によってそれ以外の音を浮き出させてしまうことによって演奏とそれ以外の音の境界が溶け出すのとは対照的に、ラドゥの場合はもっと漠然と、あまりに音の間隔があくことによって音と音の境界があいまいになる感じ、あるいは2つの音の関連に意識がいかなくなり、相対的にそれ以外の音の存在がでてくる感じとでも言ったらいいのだろうか。これは、その場の音を全てコントロール下に置く大音量の音楽や、無響室的な空間を必要とするような音楽とは正反対の発想だ。

ここまでが、まずは彼のコンサートに聴き手として立ち会った時の経験。で、この後書くのは、共演者として立ち会った時の感想だ。といっても、実は聴き手として立ち会ったときと、そう大きくは違わなかった。というか、まったく同じだったのだ。スーパー・デラックスの時もオーストリアで見たのと同様、音は数えるほどしかなかった。演奏がはじまって3分以上たっているのに誰も音を出さない。4分近くたって初めてわたしがギターで聞えるかどうかぎりぎりの音を1音。次いでカートリッジのかわりに針金を使ったアコースティックのターンテーブルを使って高域の持続音を、5分すぎにやっとラドゥはロングトーンを…って具合だ。この時は10分を過ぎたあたりから早くも音が溶け出していた。30分過ぎには、もう完全に遠近感崩壊の世界になって日常の音、冷蔵庫の音、あらゆる音とラドゥのトロンボーンの音が等価に溶けていて、私は冷蔵庫の音や地下鉄の音と、ラドゥや杉本の音それぞれと、なんの区別も境界もなく共演したり、音を当てて楽しんだりしていた。お客さんの中には同時に音を出さないように作曲されているのではと勘違いした人もいたようだけれど、そんなことはなくて、実は3人が冷蔵庫の音にあわせて同時に音を出したところもあったし、恐らく3人とも地下鉄や客の出す音も含めて、様々な時間軸をあてつつ、音を出していたはずだ。あまりにも面白くて、いろんな音が聞こえ出してしまい72分があっという間に過ぎてしまった。

現時点ではこの境地になるには、私の場合やはりどうしても、あの長い長い沈黙が必要で、この間に耳が非日常的に開かれていく中で、あの独特の感じが得られる気がしている。ケージの「4分33秒」では短すぎてとてもこうはいかない(注)。正直のところ、わたしのこういう聴き方、解釈がラドゥや杉本の音楽を的確に捉えているのかどうか、まったく自信がない。ただ、少なくともわたしはそう感じて共演していたし、オーストリアで客席にいたときも、同じように感じていた。彼らの音楽では明らかに客席も共犯者なのだ。それは音楽家が聴衆に同じように聞える音楽を提供し、場を共有するという、これまでの音楽とはちょっと違って、多分その場にいる人達は皆違う音の聴き方をしていて、ただ唯一そういう空間を共有し、皆で何かを創り出すというある種強い意思による結びつきだけで成立していているような場とでもいったらいいのだろうか。

演奏の後、あれは作曲なのか即興なのかと何人かの人から質問を受けたけれど、正直これも答えがわからない。どちらでもあるし、どちらでもない。音楽をある方向に持って行くことを事前になんらかの方法で決めてコンセンサスをとることを作曲と呼ぶなら、あの日の演奏は明らかに作曲だ。ただ僕らは事前に一切言葉の上では打ち合わせはしていない。唯一決めたのは72分という時間だけだ。それでも、今日の音楽をどうするかという取り決めは、わたしはあったと思っている。それは多分3人の相互理解の中でどういう空間をある共通の時間の中で創り出すのかというコンセンサスといってもいいし、もっと言えば会場にいたひとたちと共にある作品を演奏したと言ってもいいのではないだろうか。

このコンサートの後、わたしは友人のミュージシャンやアーティスト何人かとラドゥのコンサートについて何度か話をしている。かならずしも肯定的な意見ばかりではない。あそこまで行く必要があるのだろうか…という素朴な疑問も含めて、いろいろな意見が噴出、それだけあのコンサートが強烈に印象に残ったことだけは確かで、1つのコンサートでこれだけ意見を交わすのも珍しいことではないだろうか。

とりあえず体験する意味はある…という誘い方をわたしはしたけれど、まずは体験しないことには話にならないしってのもあって、ああいう誘い方をした。杉本やラドゥの音楽はCDで聴くのとライヴとでははまったく別のもという気がするのだ。それに「あそこまで…」のことを理屈じゃなくて実際にやる人が世界中に最低でも2人くらいはいるってのはこの世にとって豊かなことだと思っている。わたし一人では絶対にあの場所に行けないし、あの日の数十人のお客さんがいなくても行くことの出来ない場所だったのではないだろうか。それは多分杉本やラドゥにとってもスーパー・デラックスでの世界が、わたしやお客さん抜きでは行けない場所だったんではないだろうか。もしそうなら、こんな嬉しいことはない。

個人的な素朴な感想を言うなら、あの日は72分が短すぎるくらい楽しかったことと、その後の打ち上げもやたらと楽しかったこと。そして一番重要なのは、あのコンサートの後、わたし自身のコンサートでも、明らかにステージ上での音に対する、あるいは演奏の振る舞いが変化したことなのだが、これについてはもう少し時間をかけた中で発酵していくような体験だったと思っている。

(注)ケージの「4分33秒」は、実際は演奏時間が正確に決められているわけではなく、もっと長い時間演奏されることが多かったと聞く。


Last updated: January 19, 2003