どうもです。今回から「聴く」は、しばらく映画をテーマにしていく予定です。
映画といえば、いよいよ3月29日から安藤尋監督、魚喃キリコ原作の映画『blue』が東京のシネアミューズで公開になります。これにあわせてサントラ盤がweatherから3月1日発売になります。今日初めて製品になったCDを受けとってきました。魚喃さんのイラストに佐々木暁のデザインで、すばらしジャケットになっています。またライヴのほうも3月9日青山のCAYでやります。『blue』のみならず、『青い凧』、『風花』、『スタントウーマン』、『ピアス』、『キッチン』、『「dead BEAT』、『路地へ』等々これまでのわたしの映画作品を3つのバンドで演奏するめったにない機会です。ほかにも青山真治監督の初DJ、Song For TYのライヴ初演等いろいろな企画を予定しています。ぜひお越しください。コンサートとCDの詳細はここで。
それからもうひとつ宣伝を。3月12〜13日新宿PIT INNで山下洋輔、ブランキー・ジェット・シティの中村達也とわたしの3人で即興演奏をやります。すでにプレイガイド等の前売りは売り切れですが、PIT INN (tel: 03-3354-2024) のほうには多少前売り残っているとのことです。興味のあるかたはお早めに。
他にも竹村ノブカズさんとの初共演や、GROUND-ZEROのオリジナル・メンバーでNY在住のベーシスト加藤英樹の10年ぶりの来日公演等もありますので、webのスケジュールチェックしてください。
前回は認識していることが聴取の全てではなく、実は認識以前の通常は意識してないような部分でも、耳と脳は音をちゃんと聴いていて、なんらかの音響情報判断の脳内ソフトが駆動しているというような話をしてきた。音楽はこの部分においてはじつに大雑把で、ほとんど無神経といってもいいくらい、ひとつのソフトを動かす程度のおおらかな創作をするが、実は、このことをはっきりと意識しなくては成立しないのが映画の音なのだ。それも前衛的なものとかではなく、ごくごく普通の映画の音においても、こういったことに神経が行き届いているという話を、今回は自分自身が関わった映画『風花』をもとに進めていきたい。
相米監督の遺作になってしまった映画『風花』の冒頭は、桜の木の下で小泉今日子と浅野忠信が酔いつぶれているシーンで始まる。撮影は2000年の4月、わたしのアパートからほんの数分、井の頭公園の一角で深夜から明け方にかけて行われた。ご存知の方も多いだろうが井の頭公園はカラスが多いことでも有名で、撮影現場を見学していたわたしも心配になるくらいカラスが鳴いていた。いくら鬼監督の相米さんでもカラスの声まで止めることは出来ない。案の定、同時録音(以下「同録」とします)された音には尋常じゃない数のカラスの声が入っていた。映画の場合、かならずしも同録の音が使われるわけではなく、たとえば低予算の映画では役者のせりふの失敗なんかで撮影のやり直しをしている時間も予算もないことが多いので、アフレコといって声も効果音も全て後からかぶせたりすることも少なくない。全盛期の香港カンフー映画や、にっかつロマンポルノはみなこの方法だ。また低予算ではなくても、せりふ回しを変えたくなったり、同録の音に飛行機の音や、街に流れるBGMが入ってしまった時は、アフレコすることも多いし、背景音等の効果音については同録されたものに、後から音を加えて作り直すことが映画の場合ほとんどといっていい。そのくらい映画の音は、単に録音されたものを使うのではなく、巧妙に、ちょうど音楽の作曲のように様々な音がコラージュされているといっても過言ではない。当然カラスだらけの『風花』冒頭のシーンのせりふもアフレコされ、背景音も全て作り直されるのが、こういう場合は普通だ。ところが相米さんは、同録のせりふにこだわった。確かにアフレコと同録のせりふでは、感じがまったく変わるのも事実で、相米映画は同録にこだわることが多い。しかし、せりふのマイクにはカラスの声が沢山乗っている。そこで音響のスタッフは同録された音から丁寧にカラスの声の部分を削る、えらく手間のかかる作業をすることになる。
話が長くなってしまった。仮にこのカラスの音をとらずに、そのままこのシーンに流すとどうなるか。おそらく最初に見た人は、このシーンを夕方だと思ってしまうだろう。日本人の場合はカラスは通常夕方を暗示する音の記号なのだ。映画を見ている人はいちいち意識して、「あ、カラスの声と、薄ぐらい自然光だから夕方ね」とは思わない。主演の2人が何をやっているのかという物語の方に興味が奪われるのが普通だ。それでも瞬時にそのときの音と光から誰でも背景の状況を判断し、物語の流れの中の要素として「夕方」という風に認識してしまうように出来ている。それも無意識に。しかし、実際にはこの冒頭のシーンの設定は「明け方」なのだ。だからカラスはなるべく避けたい。しかも、それが尋常ではないカラスの量になった場合は、単に「夕方」という記号を読み取るだけではなく、下手をすればホラーのような不気味なムードを感じてしまう人すらいかねない。そうなるとただ酔いつぶれただけの2人の姿が死体に見えないとも限らない。意識して焦点を当てて聴くような音ではなく、こうした背景の音も人間にとっては無意識のうちに様々な記号として作用してしまう。だから映画の効果音は同時録音された音
をそのまま流すだけでは成立しないのだ。現実世界では誰もが音にフォーカスを当てたり、当てなかったりを自然にやっているし、意識せずに背景の音を排除したり、聞いていることすら意識していないのにちゃんと記号を読み取り解析したりしている。映画の場合は、丁寧に音のデザインをし直して、観客の聴取をある方向に仕向けているといってもいい。ただ漫然と撮りっぱなしの映像を流しているだけでは、観客が映像世界を読み取れないのと同様に、音もただ漫然と録音された音を流しているだけでは、観客はある音が背景にあるものなのか、メインなのか把握しにくくなる。だから映画に入っている音は、いくら自然に聞こえる音でも、役者の演技同様、全て演出されたものといっても過言ではないのだ。
さて、『風花』冒頭のシーンでは桜の花びらが雪のように舞っている。これも無論演出で、小道具のスタッフが籠に入れた花びらをお芝居の舞台のようにカメラの上方から降らしつつ、巨大な扇風機でゆるやかな風を起こして、いい感じに舞わせているのだ。この花びらの舞が、文字通り『風花』の全編に様々な形となって現れてくる。あるときは北海道の雪原の風花だったり、柄本明の降らす紙ふぶきだったり、路上で濡れた桜の花びらだったりって具合に。これと同じような演出が音でも行われていて、そのひとつが冒頭のせせらぎの音だ。桜の木の下には実際に小川が流れているのだけれど、本物からはせせらぎの音と言えるほどの大きな音は聞こえていない。あの印象的な冒頭のせせらぎの音は後から加えたものなのだ。好き嫌いは別にしてこのせせらぎ音があるおかげで、冒頭のシーンは独特のあたたかさを持つことになったと思う。せせらぎ音があるとないとでは、映像そのものの印象がまるっきり違ってしまうのだ。おまけによく注意してもらえばわかるが、せりふのない冒頭のせせらぎ音と、せりふが始まってからのせせらぎ音では音量が違う。現実には常に同じ音量で流れているはずの自然音が、実はせりふが始まると同時に会話の背景になるようにデザインされているのだ。これが不自然にならないのは、実は、人間の耳と脳も、これとまったく同じように脳内のミキサーのフェーダーの上げ下げをしていて、僕らが相手の会話に集中しているときは背景の音は意識にはのぼらないように音量を絞っているからだ。映画の音のデザインは、人間が音をどう聴いているのかということのシュミレーションを基本として出来上がっているのだ。このバランス具合をどうするかでシーンの意味がまったく違ってくる。よくホラー映画な
んかで背景の時計音が少しづつ大きな音量になって入ってくるのなんかは典型的なやり方だ。人は不安になれば普段意識のいかない音に急に耳が開きだす。それをシュミレーションすればこうなってくる。相手の話に興味がなくて意識が遠くなったときを映画でやるなら、せりふの声が背景のがやがやしたノイズの中に少しづつ溶け込むように音をデザインすればいい。カメラの焦点もそのときに相手の顔から外の風景にシフトする…これもよくある典型的な方法だ。
さて、冒頭にはこの自然音のほかにもうひとつの音の要素、音楽も静かに流れている。せせらぎの中でギターと笙の音色が静かに溶け込むように流れ出して映画が始まる仕掛けだ。音でも映像でも冒頭のシーンは映画全体のトーンを決定する重要な瞬間だ。ここをどうするかは映画の方向を決める作業に等しい。笙やギターの音は当然のことながら、このせせらぎの音と桜の花びらが舞う風景を前提に、さらに映画全体の音楽にもかかわる形でつくっている。それは通常の音楽のように、せせらぎの音程と笙の音程の兼ね合いみたいな次元の創作ではなく、意識して聴かれる音と、意識はされないが、記号としてちゃんと読み取っている音との相対関係を軸にした作曲とでも言えばいいだろうか。この方法は通常の音楽だけの作品の時にはあまり使われることはない。というか、ふつう音楽家はこの部分を意識して演奏したり作曲したりしない人が多い。音楽だけだと聴取に集中するベクトルばかりが勝ってしまうからだ。このへんの作曲というか音響デザインが『風花』全編を通して生かされているのだけれど、そのへんの話は次回に。