Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記(2000年4月)

(フリーペーパー「Tokyo Atom」に掲載。)

@月@日
真夏のニュージーランド、オーストラリアでの2週間もあっという間に過ぎ、3日間だけ帰国。その途端、花粉症が再発する。鼻水をすすりながら恵比寿のギャラリー"CHIKA"で杉本拓、中村としまる、秋山徹次と4人で生ギターだけの即興。電気を使わずに演奏したのは初めてだ。承転結や物語のない、音の肌触りだけを楽しむような静かな演奏。ジョン・ケージのプリペアドピアノを思い出した。こういう音楽があってもいい。翌々日はスイスのジュネーブ。ここの現代音楽祭で箏の八木美知依、クリスチャン・マークレイ等と共演。会場の響きがいい。互いに響きあう音。これもいい演奏だった。

@月@日 ジュネーブから列車で4時間。雪景色を見ながら同じスイスのサンクトガレン へ。ここは80年代より尊敬してやまない自作電子ジャンクのユニット「ヴォイス・クラック」の地元。アメリカのレーベルErstwhileの依頼で彼らとの録音だ。着くなり彼らのロフトに案内される。廃品のテレビやラジオ、電子オモチャのがらくたに囲まれながらひたすらマイペースに作品を作り続ける彼らならではのスペース。面白いオブジェや作品が沢山ある。フランスのメタムキンといい、ヨーロッパにはいい意味でへんてこな、しかし強力に美しい音楽とも美術とも言える作品をゆたりとしたペースで作り続けているアーティストが少なからずいる。無欲な感じもいい。ただただピー、ガギガギと電子音を出し続ける2日間は、最高に幸せな時間だった。

@月@日
オーストリアの友人からe-mail。極右政党を含んだオーストリア連立政権に 対して、連日それに反対するデモがウイーンを中心に起こっていて、それについて意見を求める内容。答えは地元の雑誌に掲載される。極右政党がある一方で、それに正面から反旗をひるがえす市民が沢山いる。希望の灯は消えちゃいない。いくつかある質問の中に「音楽には政治を変える力はあるだろうか」という問いとともに「もしオーストリアでコンサートをすることになった時、あなたはボイコットするか」というのがあった。ナチを支持する政党が政権政党になったということの意味をかんがえざるを得ない質問だ。オレの答えは「音楽そのものには政治を変える力なんて一切ないし、むしろどんな政治勢力からも利用されかねないという意味であらゆる文化は危険極まり無いものだ」という意見を書いた上で「私の音楽には政治的なメッセージはない。だからどんな意見を持つ政治勢力であれ、その声明を支持する演奏をするつもりは一切ない。それでももしコンサートを主催する人が極右政権の支持者だったりすれば、私は人間としてボイコットする。逆にそれに反対する集会でも上記の理由で支持はするが演奏はしないだろう。それ以外はむしろ演奏の自由を確保する意味でも私は演奏する」無論オレは極右政権を支持しない。ネオナチのアジア人狩りの例をだすまでもなく、とんでもない話だ。かといってそれに直接反対する音楽も作らない。音楽を政治や宗教の道具にしたくないからだ。過去何百年音楽は常に、政治や宗教に権威を与える道具として利用され続けてきた。今はそのうえ金を産む道具にもなっている。でもオレが好きな音楽はそんな立派な実用的なもんじゃなくて、もっと例えば、好きあったもんがキスをしたり抱き合ったりするような、子供がぼーっと昆虫にみとれているような、そういう言葉にしにくいもんだと思っている。そういうもんだからこそ、なにか生きてく上での真理が見え隠れしたりするんじゃないだろうか。だから最近流行のもっともらしいメッセージがこめられた音楽は好きじゃない。どんな意見でもかっこいい音楽にくっつくと素敵に見えてしまう。素敵に見えた時点で思考は止まってしまう。真理は創り手ではなく聴き手が見つければいい。音楽家は与えるんじゃなくて、ただ演奏をする無力な存在であるべきだ。


Last updated: April 6, 2000