Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

大友良英のJAMJAM日記(99年9月)

(フリー・ペーパー「Tokyo Atom」に掲載。)

@月@日
香港。台風。強烈な暴風雨でホテルから一歩も出れない。この日は、1年以上 前から計画をたて、半月のリハののち始まったダンス・カンパニー「HONG KONG DANCE ART」との公演3日目、最終日のはずだった。全ての交通機関、公共施設が止まってしまい、当然僕らの公演もキャンセルに。せっかくいい感じになってきたのに。悔しい。夜ホテルでテレビを見てたら、香港新空港で墜落のニュース。バスや地下鉄ですら止まってるのに、なんで飛行機が飛んでんだよ。どしろうとにだって落ちることくらいわかるじゃねーか。

@月@日
台風がおさまる収まるのをまって、次の目的地広州へ。香港のノイズ・キング、ディクソン・ディ、広州のアンダーグラウンド・ロック・アーティスト、ワンレイ、そしてSACHIKO Mと私のFILAMENTのジョイント公演。中国本土でこの手のGIGはヤマタカ・アイとジョン・ゾーンが行って以来、数年ぶりとのこと。狭いクラブに100人以上が詰めかけてきてくれた。すごい熱気。このクラブ、当局の目をうまくかすめてワンレイ自身が作った店で、その雰囲気はヨーロッパのスクワッドのクラブと、70年代の東京のロックやジャズのライヴ・ハウスを足して、中国テイストで割った感じとでも言おうか。ごつい宅録のアバンギャルド・ロックが聴ける彼のCDそのままの雰囲気だ。この数年、四川、北京、広州と転々とした彼は、今、せっかく軌道に乗ったこの店を捨てて東京に来ることを考えている。もっといろんな音楽を知りたいという彼の素朴な情熱を前に、反対する理由なんてオレにはない。みんな好きなことやればいい。ただ、このあまりにも違う世界からやってくる住人が、東京でどうなってしまうのか、吉と出るか凶とでるか、心配じゃないといったらウソになる。「東京に来たらメシでも一緒に喰おう」そう言って僕らは別れた。

@月@日
ディクソンとFILAMENTのチームは広州から北京へ。が、しかし、ことはそううまく運ばないのが中国だ。ここでコンサートをやる予定だったクラブは、当局の指示とやらで営業停止に。2週間前のことらしい。なんでも中国革命50周年の式典のひとつをこの通りでやるらしく、風俗上好ましからざる店やら、ストリート・ガールたちを一掃したとのこと。革命万歳! せいぜい表向きだけ綺麗にすりゃいいさ。おまけに次にやる予定だったクラブにも当局の手がはいり、ライブの営業がしばらくの間不許可になってしまった。別に僕らがやることと直接関係あるわけではないが、それにしても、革命とか当局ってやつは、よっぽどライブが嫌いらしい。結局、新しいディスコと、再開したばかりのクラブで2日間のGIGをやることになった。が、広州とはうってかわり、大部分のお客さんには??? マークだったみたいで、なんか今まで経験したことのない独特の空気に会場が包まれてしまった。称賛でも拒否でもなく、なんとなく?マークの顔、顔、顔。珍しくステージ上で孤独を味わう。

@月@日
ホテルの一室で、昨夜の録音を皆で聴く。いい内容。コンサートの手伝いを してくれた評論家で詩人でもあるイェンティェン、ディクソンらとともに、音楽の話、中国のシーンの事などを語り明かす。充実した時間。またひとり大切な友人ができた。彼らには、いいたいことが沢山あるんだ。なんだか9年前に香港で始めてディクソンらと会った日のことを思い出した。これからオレは、彼らとどんな経験をしていくんだろう。希望と絶望、複雑な気持ちが交差する。希望だけを抱くにはオレはいろいろ経験しすぎてしまったのかもしれない。哀しいことだ。気づいたらもう明け方になっていた。


Last updated: September 14, 1999