Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

映画「メイド・イン・ホンコン/香港製造」
パンフレット原稿

子供の頃に読んだちばてつやの「餓鬼」以来、私はこの手の青春ものがすごい好きだ。それはもう弱点といえるくらい。一言でいえば汚い大人の社会と清い青春の世界があって、大人になる事を拒否して青春が清いまま自滅していくってプロット。死が時間を美しいまま止めるってあれだ。「あしたのジョー」や「傷だらけの天使」もそういえばこのタイプだったなあ。一見無関係な顔をしていても、はやりもんの青春アニメやドラマの中にも「エバンゲリオン」から「リップスティック」に至るまで必ず潜んでいるおきまりのあの筋立て。でも、この映画からビンビンに来る何かはそんなもんを軽く越えている。私にとってはもっと切実で痛くて、切ないなにかだ。

ラストのラジオからの毛語録と木にひっかかった凧で、私は思わず自分が音楽を作った「青い凧」のラストシーンを思い出したのだけれど、このシーンの事を持ち出すまでもなく、この映画は明らかに97年の香港の中国返還を射程にいれて作られている。清らかな青春と香港がここではシンクロするとでも言いたいのか? そうじゃあるまい。だいたい香港のどこが清らかなんだよ。問題は清らかさではなく、青春の持つモラトリアムのほうだ。私がかなりの時間を過ごした90年代の香港は確かにモラトリアム(執行猶予)のなかを、大人としての責任を取る前の、かといって子供でもない青春期を生きていたっけ。

1997年初夏、香港の友人から自殺でもしかねない内容のFaxが送られてきた。「もう僕にはなんの未来もない、生きる希望もない」。90年代初頭、まだ無名だった私をまっさきに評価し、だれよりもはやく私の作品をCD化してくれたその友人は、自ら育てたレコード会社の倒産と長年の恋人との離別に加え、友人とのトラブル、そして香港の中国返還を目前にまったく希望を失っていた。

彼との出会いは90年代初頭。香港音楽シーンにとってこの時期は、ちょうどインディペンデント開花の時でもあった。彼も彼の仲間も皆20代、私も30になったばかり。皆で自主コンサートを企画し、まだだれも聴いたことのない音楽をやってやろう。コマーシャルなものしかない香港にも僕らの居場所をつくるんだ。そのためにも香港発の音楽を世界に発信するんだ…なんてことを彼らは考えていたんだと思う。およばずながら私も協力することにした。執行猶予中の香港、彼らの、私の輝ける青春だった。

わずか数年の間に、私はヨーロッパの音楽シーンや香港の映画音楽の世界でそれなりに業績を残し、彼も数多くのCDを出し、たがいに順調にことが進んでいるかのように思っていた。コマーシャルな方法ではない音楽のあり方を発見できたのだけは確かだったのだ。でも内実なんてだれにもわかるもんか。彼は好きなCDを出すために気の乗らぬポップスの仕事をしなければならず、それでも赤字はかさむばかり。おまけに稼ぎをだすはずのポップスでも借金を呼ぶことになる。私は私で、実質(金)のともわない狭い世界での名声とは裏腹に、ほとんど身動きできないほどの音楽的なスランプに苦しむ ことになる。自分達の見つけたやり方はメジャーにぱくられて一文も残らない。もう青春でもモラトリアムでもなんでもない。大人の現実ってやつだ。

そんな時にきたのが冒頭のFaxだった。とりあえず私は香港に飛ぶことにした。そこにはかつての仲間に人間不信を抱きぼろぼろになっている友人がいた。私の実情も似たようなもんだ。彼を助けるつもりでプレゼントした音源のCD化ももう不可能だとしょげかえっている彼を見て慰める言葉もなかった。私にとっての1997年は、返還よりもなによりもこの事件につきる。彼には逆に私が慰められたようなもんだった。

彼の話が長くなってしまった。私が言いたかったのは「メイド・イン・ホンコン」という映画そのものの肌触りが、ちょうど彼やかつての仲間達がたどった90年代そのもののようにも思えるってことなのだ。もちろんそのままではないが、青春映画のプロットにもそれは反映しているし、役者の立ち方、音楽の質感、カメラの動き、全てのテクスチャーが痛いくらいビンビンに彼らとともに過ごした90年代にシンクロしているように思えるのだ。そういえば監督もほぼ同世代だ。

97年暮れだったと思う。98年になっていたかもしれない。中国返還直後の香港からCDが送られてきた。一枚は友達に贈ってお蔵になったとばかり思っていた私のCD。そしてもう一枚が「香港製造」と書かれた「メイド・イン・ホンコン」のサントラだった。かつての仲間の一人が新しい自主レーベルを立ちあげこの2枚を最初にリリースしたのだ。彼は最年少の仲間だった。手紙には「香港製造は僕らの映画だ」と一言そえてあった。プロとはとても思えないその音楽を聴きながら、私には彼がなぜ「僕らの」といったのか分かったような気がした。この音楽は本当に良い。なぜなら彼らの青春がちゃんと詰っているから。CDを聴いてそう思った。どんな映画なんだろう。見てみたい。

あれから1年、やっと映画を見る事が出来た。素人だった役者達が生き生きと輝いているように、素人によって作られたこの音楽も予想どうりまぶしいくらい輝いていた。まるでそれ以外の出会いなんてありえないと見てる側に思わせるくらいの出会い。チャウとペンが愛しあったように、この音と絵はパーフェクトだ。自分がそこに参加していないことに軽い嫉妬をおぼえた。自分ではなくてこの音楽が輝いていることにもっと嫉妬をおぼえた。ピストルで頭を打ち抜く瞬間に立ち会えなかったことへの嫉妬。こんな経験は後にも先にもまずないだろう。

どうやら私も彼らももうピストルで頭を打ち抜いた後を生きているってことらしい。死が永遠の美しさを獲得する手段だった時期なんてとうに終わってしまっているって事だ。いや、そんな時期があるって幻想をいだけるのは、モラトリアムの中にいるときだけだ。問題は現実をどうサバイバルするかじゃないか。それとも人生は死の瞬間までモラトリアムのままであり続けるのか?

大友良英
1999年4月執筆


Last updated: June 13, 1999