Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

『映画芸術』2002年 No. 401「総力特集 相米慎二」より

細やかな周辺聴取能力 / 相米慎二によせて

大友良英

西荻窪と吉祥寺の間に「外道屋」という魚料理の専門店がある。食通だった相米さんいきつけの店だけあって旨い。監督の家は西荻窪、私は吉祥寺。よく打ち合わせに使わせてもらった。相米さんに初めて会ったのもこの店だった。1998年だったと思う。ちょうど『あ、春』の撮影が終わり、これから編集に入るって時だった。看板もない奥まった玄関を入って奥の座敷に行くと、相米さんが肩肘をついてごろんと寝転んでいた。一面識もない監督に突然呼ばれて少々面くらっていた私は、会うなり「なんでオレなんですか?」なんて生意気なことを切り出した。その後何度も見ることになる、あの独特の苦笑をしながら「いろいろ探したけど、おまえの音楽がなんだか一番わかんなくってなあ…」。

以来、僕等はにっかつ撮影所のある調布と外道屋の間を何度も往復した。大抵はわたしの楽器運搬用のバンで行き来した。「おまえの運転、うまいんだか下手なんだかわからねえなあ」。「えへへ、オレの音楽みたいっすね」。相米さんとは、音楽についての具体的な話はほとんどしなかった。何か質問しても、大抵は「おまえが考えろ」とか「違う」しか言わない。それでもその会話は示唆に富んでいたし、ものすごく刺激を受けた。「オレは音楽わからねえから」も口癖だったけれど、今考えるとこれは嘘。相米さんは実はクラシックやオペラが大好きで、ジャズのライブにもよく顔を出す音楽ファンでもあった。どこまで本気で言ったかは知らないが指揮者になりたかった…なんて言ったこともあると聞く。ロックや電気系の音は嫌いで、せいぜいピンクフロイドくらいまでしか聴けないなんて言ってたこともある。その相米さんが電子音やらターンテーブルのコラージュを本業とする私に興味を持ったのは、今考えると、どっかの雑誌かなんかで生意気にも「日本の映画はオレの音楽を使わなくちゃ駄目だ…」なんて偉そうに発言したせいかもしれない。「だったらやってみな…」ってことだったのではないか。あとで聞いた話だけれど、『あ、春』のときに、相米さんになぜ大友の音楽を使うのか詰め寄ったスタッフがいたらしい。音楽に納得がいかなかったんだろう。相米さんは「あいつがああやりたいんだから、あれでいい」なんて答えたそうだ。

その相米さんからもっとも刺激を受けたのは、実はダビングの時なのだ。ダビングとはまだ同録の音しか付いていないフィルムに効果音や台詞、音楽を丁寧に貼りつけて行く作業で、ここで編集済みのフィルムに初めてちゃんと音が付けられる。映画製作の最終工程部分だ。私はこの作業を見るのが大好きで、時間の許す限り、現場に参加させてもらうことにしている。効果音、台詞、音楽といった3つの要素がミックスされて行く様は、現代音楽の作曲以上に高度で刺激的だし、くそ面白くもない流行の安易なリミックスなんかよりよっぽど優れたリミックスの作業に思えるからだ。その上、そこに映像が加わることで起こる様々な効果や現象は、音楽の現場だけでは決して味わうことの出来ない映画ならではの醍醐味だったりする。しかもこの映画が何なのかは最終的にはこの作業の中で決まっていくといっても過言じゃない。

ここでの相米さんは私と音楽の話をするときとは打って変わって、かなり積極的に具体的な指摘をしてくる。とりわけ、視覚でいえば焦点のあっている場所以外を見る能力である周辺視に匹敵するような、周辺聴取に抜群の耳の良さを発揮していた。人間の耳は通常焦点のあたっているものしか意味として認識しないが、実は認識しているもの以外のその他多数のノイズのほうも無意識にちゃんと聞いていて、その状況をこれまた無意識のうちに解析することで、自分の置かれている状況を常に割り出して生きている。映画の場合は、この周辺ノイズの扱い方ひとつで映像の意味がまったく違うのもになってしまうのだけれど、相米さんはとりわけ、この部分への神経がこまやかだった。大げさに聞こえるかもしれないが、何度目を…というか耳を開かされたことか。いつも音楽の響きに集中することばかりを考えてきた私の耳にとって、相米さんの周辺聴取能力はおおいに参考になったし、実際『風花』あたりから周辺聴取を意識した作曲もしていて、これは後々映画以外の私の音楽の仕事にも随分応用させてもらっている。私の音楽に幅が出てきたとしたら、それは少なからず相米さんの影響があるのだ。

相米さんのペースがわかってきて、自分の音楽を押し出せるようになってきたのは、『あ、春』を経て次作の『風花』からだ。特に、撮影前の段階から音楽を作っていくやり方は手間がかかるけれど、映画とがっぷり四つに組める感じがして、好きだった。小泉今日子さん演ずるレモンが雪原で踊るシーンの音楽もこうして生まれたものだ。笙とベトナムの1弦琴に電気的な処理を加えて生まれたこの音楽は、私の作った映画音楽の中でも非常に気に入っている作品のひとつになった。

相米さんも『風花』以降は、ちょくちょく私のコンサートに顔を出してくれた。映画の時とは違って、思いきりノイジーだったりする私のライブはけっして相米好みの音楽ではなかったと思うのだが…。最後に会ったのは入院直前、法政大の学館ホールでやった韓国の打楽器奏者キムデファンとのDUOのときで、エレクトリックギターのフィードバックで思いっきりノイジーな演奏を延々とやった時だった。「相米さん、今日の演奏苦手だったんじゃない?」。笑いながら意地悪な質問をする私に、いつもの苦笑をしながら「エネルギーはつたわるよな」なんて答えていた姿が忘れられない。これから一緒にもっと面白いことがやれそうだったのになあ。なんだか悔しい。

この春、相米さんの助監督を長く務めた冨樫森監督の映画、『ごめん』の音楽を担当させてもらった。小学生の男の子と中学生の女の子の淡い恋愛を描いた映画で、自分でいうのもなんだけれど、いい映画が作れたと思っている。『風花』や『あ、春』も、その前の『夏の庭』や『お引っ越し』も、実はみな再生のための死を見つめる物語だと私は勝手に理解していて、だからその先の話を相米監督はいつか撮りたかったのではないかって気が私はしている。『あ、春』の最後に出てくる、ひよこの生まれた後の話を。でも、安易な再生話なんて相米オヤジはクソクラエだったはずで、それは僕等に残された宿題だったのかもしれない。冨樫監督と作った『ごめん』は、きっとそんな宿題の答えがちらりとでも見える映画になったんじゃないだろうか。オヤジに見てほしかったなあ。きっと苦笑しながら、また「エネルギーはつたわるよな」なんて言いやがるに違いない。

そういえば『あ、春』には、結局ひよこは生まれない…という結末もあって、実際にこのバージョンのフィルムまであったのを思い出した。実は、私はこの生まれないバージョンも結構好きだった。そんな安易に生まれてたまるか…なんて思ったんだけれど、スタッフの意見も賛否真二つ。相米さんは最後まで悩んだ挙句、しかし最終的にはかなりの確信を持って、ひよこの生まれるバージョンを選んだ。今では、私もそれでよかったと思っている。

2002年湯布院映画祭のパンフレット用の原稿をもとに、大幅加筆修正しました。

(2002年8月執筆)


Last updated: November 9, 2002