Improvised Music from Japan / Yoshihide Otomo / Information in Japanese

杉本拓論

杉本拓、たなべまさえとの鼎談を終えて

大友良英

世の中には、あんまり多くを語らないくせに、ちょっとしたユーモアやジョークで本質を突いてしまうタイプの人間がいる。今回の鼎談を読んでもらえば分る通り杉本拓はまさにそういう人物だ。彼の語る「ラモス」の一言の中に、わたしが百万の屁理屈を労しても言いきれない本質…というか宇宙みたいなもんが全て入っている。だから彼の前に出ると、ごちゃごちゃとゴタクを並べまくる自分が恥ずかしかったりする。そんな感じも今回の鼎談にちゃんと出ているし、実のところ彼との演奏もまったく同じような感じなのだ。

12月10日、六本木に新しくできたスペース「スーパーデラックス」で、トロンボーンのラドゥ・マルファッティ、杉本拓の二人と共演した。その1ヶ月前、わたしはオーストリアでラドゥの演奏を聴く機会があって、その極端な無音と弱音ぶりはすでに経験していた。その時の経験を言葉にしてしまえば、約1時間の演奏中、音が聞こえてきたのは数回で、しかもそのほとんどは息の音とトロンボーンの音の中間のような超弱音で…といった具合に簡単に説明できてしまうのだけれど、そんな説明では、そこで起こった出来事をほとんどまったく何も説明していないに等しい。確かにステージで起こっていたのはそれだけなのだけれど、問題はこの極端にミニマルな演奏会の中にいてわたし自身に起こった出来事のほうなのだ。

この手のコンサートに出くわすとまず起こるのは、耳が神経質なくらい敏感に開くことで、最初はちょっとした客席の椅子の音やら洋服のすれる音、外の車の音なんかも非常に気になったりするのだけれど、ある時間、恐らくは2〜30分くらいを超えたあたりから、そういう演奏以外のノイズも含めて、音と音の境界がぼやけて、ある種、ありとあらゆる音が溶けたような独特の体験を耳が仕出すのだ。こうなってくると俄然面白くなってくる。日常の音がほとんどの空間で、日常では体験できない聴取の経験。ステージで起こっていることが問題なのではなく、自分自身が自分の耳とどう向きあうかだけが問われてくるのだ。だったら演奏家はいらないじゃないか…といわれてしまいそうだけれど、そこはちょっと違う。この場合、そういう経験を起こすために、あなたをそういう場所に導いてくれる…あなたを非日常の場所につれて行ってくれるのが演奏家で、そう考えると、これはやはりぎりぎりのところで音楽の最低限の要素を持っていることにな る。

コンサートでこの種の体験をしたのはこれが初めてというわけではない。ジョン・ティルバリーがモートン・フェルドマンの曲を演奏するときや、Sachiko Mのソロ、それに杉本拓の作品でも何度かこの経験をしている。こうした経験がなかったら、もしかしたら、わたしはラドゥのコンサートを見て面白がれ無かったかもしれない。

ここまでが、まずは彼のコンサートに聴き手として立ち会った時の経験。で、この後書くのは、共演者として立ち会った時の感想だ。といっても、実は聴き手として立ち会ったときと、そう大きくは違わなかった。スーパーデラックスの時は10分を過ぎたあたりから早くも音が溶け出していた。30分過ぎには、もう完全にその世界になって日常の音、冷蔵庫の音、あらゆる音とラドゥのトロンボーンの音が等価に溶けていて、わたしは冷蔵庫の音と拓ちゃんやラドゥの音と、それぞれなんの区別も境界もなく共演したり、音を当てて楽しんだりしていた。現時点ではこの境地に達するには、わたしの場合やはりどうしても、あの長い長い沈黙が必要で、この間に耳が非日常的に開かれていく中で、あの独特の感じを得られたような気がしている。

正直のところ、わたしのこういう聴き方、解釈がラドゥや杉本の音楽を的確に捉えているのかどうか、まったく自信がない。ただ、少なくともわたしはそう感じていた。演奏の後、あれは作曲なのか即興なのかと何人かの人から質問を受けたけれど、正直これも答えがわからない。どちらでもあるし、どちらでもない。音楽をある方向に持って行くことを事前になんらかの方法で決めてコンセンサスをとることを作曲とよぶなら、あの日の演奏は明らかに作曲だ。ただ僕らは事前に一切言葉の上では打ち合わせはしていない。唯一決めたのは72分という時間だけだ。それでも、今日の音楽をどうするかという取り決めは、わたしはあったと思っている。それは拓ちゃんがラドゥと共演したいと思ったときに始まっていたかもしれないし、わたしが彼のコンサートを見たときから始まっていたかもしれない、個々人にとっての何かだ。いずれにしろ、わたしたちは作曲という言葉のあいまいさと、即興という概念のとらえどころのなさを嫌というほど知っているつもりで、今回にかぎらず、いつもこの問いには答えられないのだ。

実はこういう話も杉本拓とは一度もしたことがない。わたしたちは随分長い時間、一緒にいることが多いけれども、たいていはくだらない話を笑いながらしているだけなのだ。それでも、彼のジョークのひとつひとつが、実は12月10日のスーパーデラックスの演奏に至るまでの、作曲行為にもなっているわけで、こうしてぼくらは演奏前のコンセンサスを取っているようにも思えるのだ。わたしは多分彼のなんてことのない話…そう、ちょうど「ラモス」のような話…の中に時々かいま見える彼の宇宙をスコアに演奏しているのかもしれない。そう考えると彼は、わたしにとって誰よりも素晴らしい作曲家ともいえるのだけれど、これはよ〜く考えると、本来古今東西、多くの音楽はそうやってつくられていただけなのかもしれなく、そうだとしたら、彼は実に正統派の音楽家でもあるな…と思うのだ。

『Infans』No. 9(2003年2月10日発行)より


Last updated: June 23, 2003